織田信長
おだのぶなが

歴史上の人物のうちでも高い知名度を誇る戦国武将の一人が、織田信長です。

若年期は奇矯な振る舞いから「うつけ者」と呼ばれたものの、大胆で革新的な政治・軍略から「天下人」を目前にするほどの勢力を築き上げました。

小説・マンガ・映像などあらゆるメディア作品でも主人公となるほどの人気がありますが、武人としてだけではなく文化人としての側面も知られています。

この記事ではそんな織田信長のプロフィールや生い立ちに加え、文化的な功績を中心にご紹介します。

プロフィール


1534年(天文3年)‐1582年(天正10年)
戦国~安土桃山時代の武将。
尾張国(現在の愛知県あたり)を拠点に勢力を伸ばし、当時の先端兵器であった鉄砲の組織的運用や巨大装甲船の導入など、画期的な戦術で戦国の世に覇を唱えました。

内政にも手腕を発揮し、自由商業のさきがけとなる楽市楽座の開設、や外国人宣教師たちがもたらす西洋の知識・文物なども柔軟に受け入れたことが有名です。

生い立ち


織田信長は1534年(天文3年)、織田信秀の子として尾張那古野城で生まれました。

幼名は吉法師といい、1546年(天文15年)に元服し織田三郎信長を名乗ります。

若年期には奇矯な行動からうつけ者と呼ばれたことが有名ですが、1551年(天文20年)に家督を継ぐと徐々に国内の支配権を掌握。
永禄3年(1560年)に桶狭間の戦いで今川義元を破り、一躍武名を轟かせました。

1567年(永禄10年)に美濃国(現在の岐阜県あたり)を平定、その翌年には足利義昭を室町幕府第15代将軍として擁立するため上洛。

この任務を成功させたことにより、中央政権に強い影響力を行使するようになります。

しかしやがて幕府との関係は破綻していき、親幕府派の諸大名勢力に包囲され八方に軍事行動を展開しました。

1582年(天正10年)、天下掌握の一歩手前ともいわれる段階で腹心・明智光秀の謀反を受け、京都本能寺で自刃したことはあまりにも有名です。

織田信長の家族


織田信長の父は織田弾正忠家の当主・織田信秀で、母は土田御前と伝わっています。

兄弟には信広・信勝・信包・信治・信時・信興・秀孝・秀成・信照・長益・長利らがおり、信長は三男にあたります。

また姉妹にはお犬の方・お市の方らがおり、お市は戦国一の美女と称えられることがよく知られているでしょう。

信長の正室は帰蝶や濃姫の名で知られる美濃・斎藤道三の娘ですが、他に11人ほどの側室がいたとされています。

正室との間に子はなかったようですが、嫡男の信忠をはじめ信雄・信孝・秀勝・信房・信秀・信高・信吉・信貞・信好・長次・信正らの息子がおり、文献によっては娘も6~12人が記されていますが正確な人数は定かではありません。

このことから、信長は非常に子だくさんであったことがわかります。


作品の特徴とその魅力


信長自身は武将であり創作者ではないため、彼の作品と呼べるものは提示しにくいといえます。

しかし武力一辺倒ではなく、文化に対する独自の美意識を持った人物でもありました。

例えば茶道の源流である「茶の湯」を政治にとり入れ、茶道具などの美術品に大きな価値を付与。

これは「御茶湯御政道(おちゃのゆごせいどう)」とも呼ばれ、武家儀礼として茶の湯の実施を許可制とし、配下への褒賞として茶道具を与えるなどの一大潮流を生み出しました。

当時の茶道具は「唐物(からもの)」と呼ばれる中国などの海外製品が主流であり、本来の用途は茶器ではないものも多くあります。

しかしそれらの作品の新たな価値を見出した茶の湯を政治的に奨励し、茶人を政権内の役職に迎え入れた事績は特筆されることでしょう。

一方では武人らしく愛刀家であったこともうかがえ、「へし切長谷部」「義元左文字」「鬼丸国綱」等々、現在では国宝・重要文化財・御物となっている名刀の数々を所持。

また先述したように西洋文明にも柔軟な姿勢を見せ、その文物や知識を積極的に取り入れました。

戦国大名らしく城づくりにも強いこだわりを持っていた信長は、その晩年の天正4年(1576年)から約3年の工期を経て「安土城」を完成させます。

近江(現在の滋賀県あたり)の安土山に建てられた壮麗・巨大な城郭で、五層七重の天守を備えていたとされています。

最上層は金箔張りで、各層の外壁はそれぞれ朱・青・白と鮮やかに塗り分けられていました。

内部には狩野永徳の手による墨絵や極彩色に彩られた部屋などがあり、当時最高の匠による技を結集した総合芸術とも言い換えられるでしょう。

この安土城が、信長にとって生涯最高峰の「作品」だったといえるかもしれません。

審美の第六天魔王・信長


強力なカリスマ性で戦国の世を席巻した織田信長。
武田信玄に宛てた書状で使われたという「第六天魔王」の名乗りから、恐ろしげなイメージが強い武将かもしれません。

しかし実際にはこれまで述べてきたように、武力だけではなく文化の力にも造詣の深い人物でした。

美しいものを愛でてそれに価値を見出す姿勢は、平和な時代の到来を願う気持ちの表れだったかもしれません。

織田信長は、鋭い審美眼を持った戦国の麒麟児といえるでしょう。

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