光緒帝
こうしょてい

歴史ある中国の王朝のうち、「皇帝」を戴いた最後の国が「清(しん)」でした。

映画『ラストエンペラー』でもよく知られるように、巨大な版図と厚い伝統をもった王朝もやがて近代という新時代を迎え、崩壊への道を辿りました。

一方で通史的には大きく国力が増強し、対外交易の隆盛や産業の発達などが進んだ時代でもあり、それに伴い工芸分野でも高度な発展が見られる時代です。

そんな清朝では先に述べた最後の皇帝・溥儀が有名ですが、その一代前の皇帝にスポットライトを当ててみましょう。

その名は「光緒帝(こうしょてい)」。
若くして謎の死を遂げた皇帝であり、衰退していく末期の清朝を懸命に舵取りしようとした人物でもありました。

本記事では光緒帝のプロフィールや生い立ちを概観しつつ、光緒時代の特徴的な作品とその魅力についてご紹介します。



プロフィール


1871年(同治10年)‐1908年(光緒34年)
中国・清王朝の第11代皇帝。

従兄にあたる第10代皇帝・同治帝が19歳の若さで没ししたため、わずか3歳の頃に伯母である西太后によって擁立されました。

16歳で伯母より政権移譲、18歳で光緒帝自らの親政を開始しましたが引き続き西太后の影響力は強く、政治の実権をめぐりやがて対立するようになります。

1894年(光緒20年)の日清戦争敗戦や、折からの列強諸国の脅威など国事多難な中、西太后の傀儡からの脱却を目指して1898年(光緒24年)に体制の大改革に着手しました。

しかしこの急進路線はかえって臣下の離心を招き、再び求心力をもった西太后のクーデターにより軟禁状態となり、その後の生涯では皇帝としての実権を取り戻すことはできませんでした。

生い立ち


光緒帝は1871年(同治10年)、清朝第8代皇帝・道光帝の七男であった愛新覚羅奕譞(あいしんかくらえきけん)の長男として生を受けました。

姓は愛新覚羅、諱(いみな)は載湉(さいてん)、死後に贈られた廟号は徳宗(とくそう)で
光緒帝という呼び名は皇帝として統治した最後の時代での元号によるものです。

先述の経緯から3歳にして皇帝として即位し、いわば傀儡としての宿命を背負わされた人物でしたが、長じて後には積極的に自身の政治を行おうとした痕跡が認められます。

18歳での結婚以後にその意思を明確にしていったとされますが、近代を迎えた世界史の波に翻弄され、目指す親政は実現できなかったというのが大筋の見方です。

政治改革も既得権益を有する官僚集団から強く反発され、結果的に伯母の西太后のもとへと勢力が結集し、クーデターを通じて皇帝でありながら軟禁の憂き目にあうこととなりました。

政治の表舞台に再浮上することなく、1908年(光緒34年)10月21日、西太后の死の前日に謎の崩御をとげています。

光緒帝の家族


光緒帝の父は先に述べたとおり、第8代皇帝である道光帝の子・奕譞で、母は西太后の妹である葉赫那拉(えほなら)氏でした。

兄弟には載灃(さいほう)・載洵・載濤らがいました。
中でも載灃はラストエンペラーとして知られる宣統帝・溥儀の実父にあたります。

后は西太后の姪にあたる孝定景皇后、他に温靖と恪順(珍妃)という妃がいましたがいずれの后妃との間にも子は設けていません。


代表的な光緒朝作品の特徴とその魅力


光緒帝自身は芸術家ではありませんでしたが、その統治時代に世に出た工芸品のうち、特によく知られている一品についてご紹介します。

それは現在、台湾の故宮博物院が所蔵する「翠玉白菜」と呼ばれる彫刻品です。

硬玉であるヒスイ輝石を原料として白菜の姿を彫刻したもので、バッタとキリギリスも造形されています。

高さ約19センチメートル・幅約9センチメートルで、原石の持つ白と緑の天然色を巧みに軸と葉の様子に振り分けたものです。

このように原石本来の色や形を活かした硬玉細工は「俏色(しょうしょく)」といい、清朝の中期以降に流行したとされています。

この翠玉白菜は光緒帝の妃・温靖が暮らした紫禁城内の永和宮に保管されていたもので、輿入れの持参品と考えられています。

作者は不明であり、厳密な意味ではどの時期に作成されたものかも詳らかではありませんが、この時代に初めて世に知られたことから光緒朝の作品例としてご紹介しました。

非常に硬いヒスイという素材に緻密な彫刻を施し、しかも天然色や素材の元からの欠陥部を巧みに生かしたレイアウトには、作者の卓越した技量と美的センスの高さをうかがえます。

清朝には多くの産業や文化が加速度的に発達しましたが、美術品についての工芸技術も極限まで高まりを見せました。

翠玉白菜はそのような硬玉彫刻のもっとも完成された姿とも評価され、故宮博物院でも非常に有名かつ人気のある展示品として知られています。



【まとめ】

謎多き悲運の皇帝・光緒帝


光緒帝の死には不審な点が多く、昔から自然死と毒殺両方の説がささやかれてきました。

幼くして皇帝という宿命を強いられ、時代に翻弄された悲運の人物といえるでしょう。

一方で、妃の一人が嫁ぐ際に携えてきた翠玉白菜は、素朴なモチーフながら清朝工芸技術の粋を集約したかのような逸品でした。

この対比に思いを馳せる時、滅びゆく前夜の清という王朝のあやういバランスを感じます。
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