プロフィール
尾形光琳は江戸時代に活躍した画家で、その流派は光琳という名前から一字をとり、琳派と呼ばれています。日本画の世界では狩野派など、通常、創始者や由来となった画家の姓が用いられるのですが、琳派のように名前が、しかも、通称が使われているものは他に例がありません。
尾形光琳は江戸時代初期の1658年、京都有数の呉服商、雁金屋の次男として生まれました。もともと尾形家は平安末期の武士、緒方三郎惟義の末裔といわれ、曽祖父、道柏が京都で呉服屋を営んだのが雁金屋のはじまりといわれています。
道柏は、書道や陶芸などの芸術家として名高い、本阿弥光悦の姉を妻に迎え、このことが、尾形家が芸術家と交流を持つきっかけとなり、京都でも指折りの名家になる足がかりともなりました。さらに尾形家は、戦国武将、浅井長政の家来筋に当たっていたことから、長政の娘で徳川秀忠の妻となった淀君から大量の呉服注文を受けて、発展していきます。
こうした家柄に育った尾形光琳は、幼い頃から呉服の衣装図案帳である雛形帳に接し、呉服のデザインに慣れ親しみました。そして、書をはじめ能などの芸術や芸能にも熱中し、15歳では自ら能の舞を披露します。18歳のときには醍醐寺三宝院門跡という身分の高い僧の前で能を演じています。
芸術への興味は絵画の世界にも及び、狩野派の絵画を模写したり、仏画を描いたりしてその腕を上げていきました。1678年、雁金屋の最大顧客が死亡すると注文が減り、徐々に衰退していきます。1687年、尾形光琳が30歳のとき父が死没し、兄が雁金屋を継ぎ、尾形光琳は大名への貸し証文などを相続して暮らしは安泰のはずでした。しかしその後、貸し証文のほとんどが取り立て不能となるなどして、経済的に行き詰まってしまいます。
尾形光琳は経済的に切迫したとはいえ、倹約生活には慣れず、弟の乾山の勧めもあって、30代後半から絵師として活動するようになります。1701年、宮廷から法橋という位の称号を授かり、公家の家に出入りしやすくなると、ますます絵師としての活動を広げ、その作品も輝きを増していきます。代表作「燕子花図屏風」はこのころに制作されたものです。
40歳を過ぎた頃、以前から惹かれていた俵屋宗達の絵に向き合い、人物や古い物語の描き方や構図などを自らのものにしていきました。このころ京都の貨幣鋳造所の役人であった中村内蔵助と知り合い、その肖像画を描くなど親交を重ね、同時に経済的な援助も得ていました。やがて、内蔵助が江戸の銀座に転勤となったのを受け、尾形光琳も江戸に赴くことを決めます。
江戸に落ち着いた光琳は、内蔵助の仲立ちで勘定奉行の荻原重秀と面識を得て、「菊図屏風」の注文を受けます。その後、複数の大名屋敷にも出入りを許され、酒井家からは俸禄を受けた他、大名から屏風などの注文も安定して入るようになりました。
しかし、大名との付き合いを窮屈に感じ、やがて不満をかかえるようになります。その一方で、雪舟、雪村の絵に惹かれたり、浮世絵の美人画に挑戦したりするなど、絵に対する意欲は相変わらず旺盛でした。
1709年、尾形光琳はついに江戸を離れ京都に戻ります。1711年、京都に画室のある新居を建築し、「風神雷神図屏風」や「紅白梅図屏風」など晩年の大作をものにしています。同時に、漆器の意匠に取り組んだり、弟の乾山と合作で陶器を制作したりと、多方面にその才能を発揮しました。しかし、1716年6月2日、59歳で急逝し、妙顕寺興善院に葬られました。
生い立ち
尾形光琳は1658年(万治元年)、京都の呉服商「雁金屋」の次男として生を受けました。
通称を市之丞といい、名は惟富・伊亮・方祝など。号は初め浩臨とし、光琳は30歳代前半からの表記と考えられています。また別号として道崇・寂明・澗声、軒号には長江軒・青々斎など多くの号を用いていました。
生家の雁金屋は、光琳の祖父・宗伯の代では東福門院(二代将軍・徳川秀忠の娘で後水尾天皇の皇后)の御用を務める豪商でした。光琳は幼少より芸能や文学に触れ、呉服商の家業から多くの服飾意匠に日常的に触れる環境で育っています。
能楽・書・茶の湯などの諸芸に加え、正確な時期は不明ですが狩野派の山本素軒に絵を学びました。
光琳が30歳の頃に父・宗謙が亡くなりましたが、当時の雁金屋は斜陽であり分与された財産も放蕩によってほぼ使い尽くしてしまったといいます。
生活のためを第一として画業に本腰を入れた光琳ですが、公家や大名、富商など多くの支援者を得て、1701年(元禄14)には高僧などに与えられる「法橋(ほっきょう)」の位を授かり、以後作品に「法橋光琳」の落款を用いるようになりました。
これには摂政・関白を務めた二条綱平の働きかけがあったものと考えられており、光琳が有力者との太いパイプを持っていたことがうかがえます。
また、1704年(宝永元年)に光琳は初めて江戸へと出て、以後1711年までの宝永年間に4~5回も京と江戸を往復する生活を送りました。
この時に江戸の材木商であった冬木家に身を寄せ、弘前藩主・津軽家と交流を持ち、前橋藩主・酒井忠挙から扶持を得るなどの厚遇を受けています。
1711年(正徳元年)、京都新町通りに新居を構えた光琳はここで制作活動を行いました。
光琳晩年の代表作の『紅白梅図』は制作技法について現代でも不明点があり研究が続けられるなど、今なお多大な影響力を持つ画家の一人です。
尾形光琳の家族
光琳の家族は、5歳下の弟・尾形乾山(けんざん)が有名です。
光琳と同じく絵も描きましたが陶芸家としての作品がよく知られ、まるで現代アートを思わせる前衛的な絵付けを施した焼物が印象的です。
乾山は放蕩三昧だった光琳と違って質素な生活を旨とした人物でしたが、その師として野々村仁清と兄の名を挙げています。
尾形光琳作品の特徴とその魅力
光琳の作品にはさまざまなジャンルのものがありますが、代表格ともいえる絵画にフォーカスしましょう。
光琳の絵は制作年代がはっきりしないものが多いとされますが、屏風絵などの大型作品が著名です。
大和絵と水墨画の技法などを基にした大胆さと繊細さを併せ持つ画風は、シンプルな構図の中にも深い奥行きを感じさせる不思議な魅力を持っています。
一見きらびやかな金屏風に描かれたものもシックで渋い印象を与え、絶妙なバランスが多くの人の心を引き付けてやみません。
琳派代表格の絵師、尾形光琳
日本画の「琳派」という呼び名の由来は尾形光琳から一文字をとっていますが、実は特定の師弟関係やグループではありません。
一定の系譜はあるものの、出現期から発展期では光琳をはじめとする絵師たちが相互に影響しあってスタイルを確立させていったと考えられています。
こうしたある意味での自由さも、光琳の画業の特徴です。
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