日本における絵画への取り組みにはいろいろなアプローチやスタイルがありますが、一つの捉え方として「生活のための商業的制作」と「研究のための学術的制作」という区分のあることが指摘されています。
これ自体は現象として何ら問題のあるものではないとする一方、その二重構造的な風潮が日本の絵画への評価の妨げになるという懸念も示されてきました。
そうした警鐘を鳴らしてきた画家の一人が「野田弘志(のだひろし)」です。
およそ十年ごとに大きく画風を転換させるという特徴的な画業で知られる作家ですが、その根本的なスタンスは揺るぎないリアリズムに支えられています。
本記事では野田弘志のプロフィールや生い立ちを概観しつつ、作品とその魅力についてご紹介します。
プロフィール
1936年(昭和11年)6月11日‐
昭和から現代にかけて活躍する日本の画家。
約十年ごとに画風の大転換を迎えるという画業で知られ、大まかには1970年代の作品を「黒の絵画」、80年代を「金の絵画」、90年代以降を「白の絵画」と呼んでいます。
画題を精密に写真撮影し、それを用いた徹底的なリアリズム表現が特徴的な作家としても有名です。
生い立ち
野田弘志は1936年(昭和11年)6月11日、韓国の全羅南道で生まれました。本籍は広島県の沼隈郡柳津村ですが、その後広島県福山市、中国の上海と居を移しています。
終戦の年、1945(昭和20)年に日本へ帰国して福山市で少年時代を過ごし、1951(昭和26)年に静岡県浜名郡へと転居。その翌年に愛知県立豊橋時習館高等学校に入学しました。
同校卒業後の1956(昭和31)年に上京。阿佐ヶ谷美術学園洋画研究所に通い、洋画家の森清治郎に師事します。翌年に東京藝術大学美術学部絵画科に入学し、油画を専攻しました。
同学在学中の1960(昭和35)年、白日会第36回展で白日賞を受賞。翌年には同37回展でプルーヴー賞を受賞、白日会準会員となり東京藝術大学卒業後に広告代理店である株式会社東急エージェンシーに入社。企画調査部制作課でイラストレーターとして勤務するようになります。
その翌年には白日会正会員となり、東急エージェンシーを退社。自身のデザイン会社を設立します。
イラストレーターから画家へと転身したのは1970(昭和45)年のことで、以降個展を中心として作品を発表し続けました。
1974(昭和49)年には東京造形大学の非常勤講師に就任し、二年間勤務。
1982(昭和57)年に白日会第58回展で内閣総理大臣賞を受賞し、以降個展を開きつつ小説作品の挿絵なども数多く手掛けました。
1992(平成4)年に第14回安田火災東郷青児美術館大賞を、1994(平成6)年には第12回宮本三郎記念賞をそれぞれ受賞し、1995(平成7)年には北海道の壮瞥町に新たにアトリエを構えました。
2005(平成17)年に広島市立大学名誉教授に就任。2007(平成19)年に自身の回顧展を開催し、2018(平成30)年には当時の天皇・皇后(現:上皇・上皇后)の肖像画を制作しました。これは1974(昭和49)年に宮永岳彦が当時皇太子・皇太子妃時代の二人を描いて以来の宮内庁公認皇室肖像画として知られています。これには弘志の天皇・皇后との親交による依頼という背景がありました。
野田弘志作品の特徴とその魅力
野田弘志はおよそ十年ごとに作風の大転換点を迎えていることを先に述べましたが、一貫してリアリズムに立脚した精密な現実描写というスタイルを崩していません。
そのため制作用に「メモ」としての写真資料を用いることで知られ、徹底した写実技法を支えるアイテムの一つとなっています。
弘志の画業はおおむね三つの時系列に区分されるため、それぞれの時代の作品が持つ特徴と魅力を概観してみましょう。
1970年代の作品群は「黒の絵画」と呼ばれています。イラストレーターから画家に転身した時代のもので、背景に黒を多用したことが名の由来です。実際には単色の黒ではなく光沢に変化のあるもの、質感が強調されたもの、素材を変えたものなどさまざまなバリエーションがあります。こうした黒の多様性を追求した点が、この時期の作品の特徴と魅力といえるでしょう。
1980年代には「金の絵画」と呼ばれる作品群を手掛け、背景に金箔を用いたり赤や黄色系統の絵具で黄金を表現したりといった特徴が見られます。この時期には特に高い完成度を誇る鉛筆が印象的で、後の油彩画のレベルを飛躍的に向上させる契機になったとも評価されます。
1990年代以降は「白の絵画」と呼ばれ、文字どおり白や灰色を基調とした連作に特徴があります。2000年代以降には明るい灰色を多用した作品が目立ち、一方では色鮮やかな薔薇を描いたことも印象的です。リアリズムに基づいた確かな描写力が一層際立ち、その画力が迫ってくることは大きな魅力の一つといえるでしょう。
黒と金と白の画家、野田弘志
野田弘志は制作において資料用に写真を用いることを認めつつ、一方では絵画の初心者がこれを使うことには、さまざまな弊害があることに警鐘を鳴らしています。
また絵画における商業用と研究用というダブルスタンダードを批判しており、日本画壇のレベル向上を妨げる要因の一つと指摘してもいます。
こうした思想やリアリズムを絵画で表現し尽くすというこだわりなどからも、ストイックな芸術家ともいえる人物なのではないでしょうか。
>
洋画・コンテンポラリー買取ページはこちら