武者小路実篤は、1885年に現在の東京都千代田区にある華族の家に生まれ育ちます。学習院初等科に入学し、その後高等部まで同学で過ごした後、現在の東京大学に入学し創作活動を始めます。その後大学を中退し、学習院からの同級生である志賀直哉らと一緒に文学雑誌の白樺を創刊します。それがきっかけとなり白樺派と呼ばれるようになりました。
階級闘争のない調和社会を目指して、1918年には宮崎県児湯群木城村に村落共同体の新しき村を設立します。この村に住み、農作業を行いながらも新聞社にて連載を持つ等の文筆活動も行っていました。しかしダム建設の影響で、村の大半が水没してしまったため、1939年に埼玉県入間郡毛呂山町へ新たな村落共同体の新しき村を建設します。
宮崎県と埼玉県に建設されたこの新しき村は、現在も存在しています。宮崎県の新しき村では水没によって大半の住民が移住したものの、現在も数名が残って暮らしており、武者小路実篤の理念を受け継ぎつつ生活しています。また、村内には武者小路実篤が暮らしていた旧宅を再現した記念館があり、当時の出版物や本人にまつわる書類、絵画が展示されています。埼玉県の新しき村では、400点にもおよぶ絵画や原稿などが展示されている美術館があり、こちらも宮崎県の新しき村と同じく武者小路実篤の理念を今も受け継いでいます。
白樺が終刊になったころから、淡彩画や油絵などの美術に関心を持ち始め、個展を開くほど美術活動に力を入れていきます。戦争に協力する過激な活動に参加しながらも、当時の作品はどこか温かみのある優しい作品が多く、絵画と共に武者小路実篤のメッセージとも言える文が添えられているのが特徴的です。
文学、美術、思想などのさまざまな分野で天才的な才能を発揮し、多くの偉業を成し遂げた武者小路実篤は92歳で生涯の幕を閉じます。
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