乾隆帝
けんりゅうてい

中国の長い歴史の中では幾多の王朝が栄枯盛衰を繰り返したことが知られています。

伝統的のその君主は「皇帝」の号を用いてきましたが、最後にその名で呼ばれる統治者を推戴した王朝が「清(しん)」でした。

実に300年に届こうかという長期政権でしたが、国力の増大は工芸分野の技術も飛躍的に向上させることとなりました。

壮大かつ絢爛、そして緻密さを兼ね備えたイメージがある清朝の美術工芸。

それには歴代皇帝たちの強い関心と後ろ盾が大きく影響していました。

清朝の歴史において、その全盛期を作り出したとされるのが第6代皇帝・乾隆帝です。

武人肌でありつつ海外の文物にも深い興味を示し、それらを積極的に取り入れる姿勢は芸術分野にも波及しました。

本記事ではそんな乾隆帝のプロフィールや生い立ちを概観しつつ、乾隆時代の特徴的な作品とその魅力についてご紹介します。

プロフィール


1711年(康熙50年)‐1799年(嘉慶4年)
中国・清王朝の第6代皇帝。

祖父である第4代・康熙帝(こうきてい)にその英明さを愛され、皇帝候補として幼少より宮中で養育されました。

帝位に就いたのは25歳の時で、祖父・康熙帝の寛容さと、父である先帝・雍正帝(ようせいてい)の厳格さの中道を指向する領土拡張政策を掲げました。

生涯に国外を含む10回の遠征を行っており、これを「十全武功」と呼んで誇ったといいます。

また父・祖父ともに倹約家であったのに対し乾隆帝は派手好きだったとされますが、民間経済の好循環から国力が増強していたことが後押しし、度々の減税を実行しています。

一方では文化事業にも注力し、古今の優良書を筆写した『四庫全書』の編纂も乾隆帝の時代の功績です。

乾隆帝は在位60年で次代に譲位しましたが、これは祖父・康熙帝の治世期間を超えることへの配慮によるものとされています。


生い立ち


乾隆帝は1711年(康熙50年))、清朝第5代皇帝・雍正帝の第4子として生を受けました。

姓は愛新覚羅(あいしんかくら)、諱(いみな)は弘暦(こうれき)、死後に贈られた廟号は高宗(こうそう)で乾隆帝とは皇帝として統治した最後の時代での元号による呼び名です。

皇帝が生前に後継者を公式には指名せず、候補者の名が書かれた紙を封印して崩御後に開封し時期皇帝を決めるという、「太子密建」により即位しました。

これは第5代・雍正帝が定めたシステムとされ、乾隆帝はその制度で即位した初めての皇帝でもあります。

乾隆帝は先に述べたとおり自ら生涯をかけた外征を実施し、安定した国内政治に立脚した文化事業にも注力しました。

一方で治世の後半では厳しい思想弾圧や官僚の汚職などを招くということもあり、明君としての評価だけではないのも現実です。

退位後は太上皇帝というポストでしたが政治権力からは離れず、1799年(嘉慶4年)に満87歳で崩御しました。

乾隆帝の家族


乾隆帝の父は先に述べたとおり、第5代皇帝・雍正帝で、母は熹貴妃ニオフル氏でした。

兄弟も幾人かいましたが、皇帝後継者最有力候補と目されたのは乾隆だったといいます。

后は正室として孝賢純皇后、その死後は継室として清高宗継皇后を迎えました。

側室の妃には15名が記録されており、あわせて皇子17名と皇女10名を設けています。

しかし皇子たちはいずれも短命で、乾隆帝が退位した85歳の時点で4名しか生存していませんでした。

代表的な乾隆朝作品の特徴とその魅力


乾隆帝自身は創作者ではありませんでしたが、芸術分野については国内のみならず海外のものにも関心を示しそれらを受け入れました。

乾隆帝の統治時代に世に出た工芸品のうち、特によく知られているものが「乾隆ガラス」です。

広義においては清朝の時代に作られたガラス全般を指す場合もあります。

ガラス自体は古代から存在していましたが、乾隆帝の時代にヨーロッパからもたらされたベネチアンガラスなどの技術を取り入れ、さまざまな色ガラスの生成が可能となりました。

1740年(乾隆5年)に清を訪れた2名のフランス人宣教師がガラス製造にあたったことが始まりで、色・質感・形状ともにガラス製品のバリエーションが飛躍的に増加しました。

乾隆ガラスの特徴は硬玉細工で洗練された彫琢技法を思わせる様式にもあり、中国の伝統的な美意識と西洋の技術とが高度に融合したものとなっています。

いずれにせよ、水晶や翡翠といった硬玉や象牙などを珍重してきた中国の歴史に裏打ちされた、重厚で深みのある独特なガラスの風合いが賛美されています。

芸術を愛した開明的な皇帝・乾隆帝


どことなく豪放なイメージのある乾隆帝ですが、一方では宮廷画家を重用して専門の機関を設置しています。

これは先帝までの時代にはなかったことで、そういった意味でも乾隆帝の文化面での開明性が際立ちます。

またヨーロッパから来訪した画家たちのためのアトリエを設けるなど、先進的な施策にも取り組んでいました。

乾隆帝の概略


乾隆帝は、清の第6代皇帝。
諱は弘暦(こうれき)、廟号は高宗(こうそう)。
在世時の元号の乾隆を取って乾隆帝と呼ばれています。

清王朝(清朝)は、日本では江戸時代の初めにあたる天命元年(1616年)、中国・満州において、前身である金(後金)が建国され、崇徳元年(1636年)に清に国号が改められました。その後、順治元年(1644年)に明王朝が滅ぶと、北京へと遷都を行い、1912年まで中国やモンゴルを支配する最後の統一王朝となっています。

中でも康煕帝(こうきてい)(1661~1722)、雍正帝(ようせいてい)(1722~35)、乾隆帝(けんりゅうてい)(1735~95)の三人の皇帝の時代には、国内での農業、商業の発展によって経済が活発化し、国力が増強されて、対外貿易についても頻繁に行われるようになり、文化的にも大きな発展を遂げています。

そんな清の最盛期が、第6代・乾隆帝の時代です。乾隆帝は12代にわたって続いた清の歴史のなかで60年もの長期政権を布き、生没年も1711~1799年と、数えで89歳の長寿にも恵まれました。

乾隆帝は数多くの漢詩を作る詩人の素養もあり、中国の伝統的な文学を奨励した。その象徴が「四庫全書」である。全国から古今の書物を集めて4部(四庫)に分け、書き写して保存した。その数、全3462種、7万9582巻と相当な数の書物をまとめています。

清朝の工芸についても技術的に高度な発展を遂げおり、なかでも陶磁器については、官窯(かんよう)とよばれる王朝直属の陶磁窯(とうじよう)において、優れた作品が数多く生み出されています。

中でも乾隆帝の時代に作られた、陶磁器は良質なものが多いといわれています。
乾隆帝の時代の作品には大清乾隆年製と記されています。
大清乾隆年製とは、乾隆年間の間に官窯で作られた陶磁器の裏に記され、当時の王朝と、皇帝の名前で構成されています。他にも「大清〇〇年製」や「大明〇〇年製」などがあり、これらの銘を年款銘と言います。大清乾隆年製の真作の製品はほとんどは美術館に収められています。稀に、旧家の蔵などから発見される場合もありますが、本当に稀なことです。
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