雍正帝(ようせいてい)は清朝の第5代皇帝。
諱は胤禛(いんしん)、廟号は世宗、諡号は憲皇帝。
在世時の元号を取って雍正帝と呼ばれています。
雍正帝は康煕帝(こうきてい)の第四子で、出産の過程で数々の瑞兆が現れたと記録されており、雍正帝が多くの兄弟たちとの帝位争いの中で頭角を現す伏線がすでに、出産の際からあったと残されています。
統治期間はわずか13年で、康煕帝(61年)と乾隆帝(60年)長期統治をおこなった二人にはさまれて目立たないが、厳格な政治で清朝の体制の維持を図り、清朝の全盛期の皇帝の一人です。
在位十三年の間、寝る間も惜しんで政務に没頭し、政治制度の革新に多大な貢献をしたことから、統治は安定し、国庫は充実し、後継の乾隆帝にとって発展の助けとなる基礎を構築したといわれてます。
清王朝の中でも、康煕帝(こうきてい)(1661~1722)、雍正帝(ようせいてい)(1722~35)、乾隆帝(けんりゅうてい)(1735~95)の三人の皇帝の時代は、国内での農業、商業の発展によって経済が活発化し、国力が増強されて、対外貿易についても頻繁に行われるようになり、文化的にも大きな発展を遂げています。
雍正帝の時代に作られた陶磁器には、大清雍正年製と記されています。
大清雍正年製とは、雍正年間の間に官窯で作られた陶磁器の裏に記され、当時の王朝と、皇帝の名前で構成されています。これを年款銘と言います。
大清雍正年製の記しの入った作品は、統治期間が短かったこともあり、貴重価値が高くなっている。真作はかなり貴重で、美術館等で保存されていることが多い。
四千年とも五千年とも表現される中国の長い歴史では、いくつもの王朝や政権が栄枯盛衰を繰り返してきました。
その複雑な経緯を順に追っていくには時間が必要ですが、最後の統一王朝として17世紀半ば頃から20世紀初頭まで存続したのが「清(しん)」です。日本史を学ぶ上でもその王朝名を目にすることは多く、近代まで続いた歴史からも知名度の高い中国王朝の一つと言えるでしょう。
この清という王権は漢民族によるものではなく、満州族の征服王朝である点に大きな特徴があります。
男子の辮髪など一部の習俗を義務化することはあれど、基本的に漢民族をはじめとした各部族の習慣を破棄せずに尊重していました。
歴代の清朝皇帝は漢民族古来の文化を学習するのに熱心であったといわれており、清は文化芸術の面でも大きく発展した時代であったことが知られています。
清朝の歴史の中でも特に隆盛を誇ったのが第4代~第6代皇帝の時代で、それぞれ康熙帝・雍正帝・乾隆帝として非常に著名であるといえるでしょう。
本記事では清朝第5代皇帝・雍正帝にフォーカスし、プロフィールや生い立ちを概観しつつその時代の美術作品について特徴や魅力を見ていくことにしましょう。
生い立ち
雍正帝は1678年(康熙17年)10月30日、清朝第4代皇帝・康熙帝の第4子として生を受けました。姓は愛新覚羅(あいしんかくら)、諱(いみな)は胤禛(いんしん)、廟号(びょうごう)は世宗、死後に贈られた諡号(しごう)は憲皇帝。雍正帝とは皇帝として統治した最後の時代の元号である「雍正」による呼び名です。
先代・康熙帝は第2子を寵愛し皇太子としていましたが、これに反対した勢力の抗争や怠慢が蔓延り、結果的に2度にわたって廃太子となり後継者を公式に指名しないまま康熙帝は世を去ります。
康熙帝の重臣・ロンコドによって先帝の遺詔として帝位に指名されたのが胤禛、つまり雍正帝で、45歳という年齢での即位でした。
即位後、雍正帝は綱紀粛正や政権強化、あるいは財政の再生など政治手腕を発揮し、康熙帝時代に緩んだ王権基盤を再び強化していきました。
上奏文には全て自ら目を通して満州語・漢文それぞれを使い分けて直接書き込みや指示を行い、地方官であっても公平に業績を称えるなどの姿勢を貫きます。睡眠時間は4時間以下だったともいわれ、中国史上類を見ないほどに勤勉な皇帝という評価はこれらの事績によるものです。
一方では先代・康熙帝から文人弾圧を引き継ぎ、この時代に禁書となった書物は少なくありません。しかし制度としての奴隷廃止や、当時のチベットやロシアとの領土・交易問題にも積極的に対応を行っています。
雍正帝は1735年(雍正13年)8月23日に満56歳で生涯を閉じますが、その死因はストレスとも暗殺とも、あるいは神仙思想による水銀中毒など諸説入り乱れ、正確なところは定かではありません。
雍正帝の家族
雍正帝は先に述べた通り清朝第4皇帝・康熙帝を父に持ち、第4子が第6代・乾隆帝として即位しています。清朝最大の繁栄を築いたとも例えられるこの三代を盤石にした皇帝として、在位期間は短いながらも雍正帝の手腕は高く評価されています。
代表的な雍正朝作品の特徴とその魅力
雍正帝自身は芸術家ではありませんが、清朝を代表する美術分野の一つとして本記事では「書」にフォーカスしてみましょう。
中国で紙に筆と墨で書かれた書蹟のうち、学書や保存・鑑賞を目的としたものを「法帖(ほうじょう)」と呼んでいます。この書家としては王義之(おうぎし)がたいへん有名ですが、清の時代では明代末から活動していた王鐸(おうたく)がその筆頭格と目されています。
また雍正帝は明代末の書家であった董其昌(とうきしょう)の書を好んでいたとされ、その時代には董の書が流行しました。
雍正帝は自らの筆で上奏文に書き込みを行ったことでも知られるように書に熱心で、歴史上の法帖を広範にわたって臨書したことから先代・康熙帝に称賛され、次代・乾隆帝の次代には手本ともされました。
このようなことから雍正帝時代には書が一つの美意識やステータスの指標になるともいえるでしょう。
中国史上稀有な勤勉さで知られる皇帝・雍正帝
雍正帝のようにすべての上奏文に自ら目を通し、自身の筆で直接指示を書き込むという執務姿勢の皇帝は稀有とされています。
そうした業務を支えた一因には前記のような書の技量が関わっていることが想像され、当時の治世の影の立役者ともいえるでしょう。
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