麻生三郎は、戦争を生き抜いた写実主義の洋画家です。戦前の日本で洋画を学び、見解を深めようと世界へ飛び出した途端に、第二次世界大戦に拒まれました。
しかし、麻生三郎は負けることなく、戦時中も作品を発表し続けました。空襲でアトリエが焼け、多くの作品が消失するなか、美術の復興に向けて尽力した美術家の一人です。
苦境に立たされながらも、リアリズムにこだわった作品を制作し続けた麻生三郎の生い立ちと、作品の魅力を解説します。
麻生三郎のプロフィール
1913年(大正2年)-2000年(平成12年)
洋画家
麻生太郎は、昭和の時代に活躍した洋画家です。戦前は自らの洋画技法を構築し、戦中は美術を残すために作品を作り続け、戦後は美術界の復興に努めました。晩年は後進の育成に力を入れるなど、戦争の困難にも負けず、日本の美術を守った美術家の一人です。
麻生三郎の作品は、リアリズム(レアリスム)とも呼ばれる高い写実性が持ち味です。画面の中にある空気の重さが感じられ、描かれた人物の息づかいまで感じ取れそうな作品を得意とします。
麻生三郎の生い立ち
麻生三郎は、1913年に東京都京橋区(現在の中央区南部)に生まれました。実家は築地にほど近い炭問屋で、当時のモダンな街並みがきっかけで、麻生三郎は洋画に興味をもったとされています。
明治学院中等部のころ、小林萬吾が開いた同舟舎洋画研究所に通い始めます。小林萬吾は、明治時代に日本の近代絵画の確立に貢献した洋画家です。
1930年に明治学院中学部を卒業すると、太平洋美術学校選科に入学します。太平洋美術学校は、浅井忠や小山正太郎らが設立した明治美術会により、1904年に開設された美術学校です。後進育成のために創設され、多くの才能ある後進を育ててきました。
麻生三郎は、太平洋美術学校に1933年まで在籍し、松本竣介や寺田政明、長谷川利行ら若き洋画家たちと出会いました。太平洋美術学校を中退後は、個人活動に励み、1936年に寺田政明や吉井忠とエコール・ド・東京を結成します。エコール・ド・東京とは、日本洋画の先進を目的とした若手画家の組織です。1937年に第一回エコール・ド・東京展を開催し、麻生三郎も作品を発表しています。1938年になると、麻生三郎は世界の美術を学ぶためにヨーロッパに旅立ちました。美術の最先端であったフランスやイタリアなどを回りましたが、第二次世界大戦の悪化により帰国を余儀なくされました。
日本に帰国後は長崎県を拠点として、1939年に福沢一郎や、太平洋美術学校時代の旧友である寺田政明らと美術文化協会を結成します。1943年には、ヨーロッパで見聞きしたことをまとめた『イタリア紀行』を刊行しました。また、同年に寺田政明や松本竣介らと新人画会を結成します。ところが、第二次世界大戦が佳境を迎え、多くの画家が創作活動を中断せざるを得ない状況になりました。麻生三郎も長崎の空襲でアトリエと作品を失いながら、創作活動を続けて作品を作り続けました。
戦後の1947年に復帰した自由美術家協会に、麻生三郎ら新人画会のメンバーも参加します。麻生三郎は、協会で戦時中に抑圧された芸術活動の復興に力を注ぎます。その他に、二科会や独立美術協会、美術文化協会など多くの団体から新進気鋭の美術家が移籍し、自由美術家協会は昭和中~後期にかけて力のある美術団体に成長しました。
1952年になると、武蔵野美術学校(現在の武蔵野美術大学)で洋画を教え始め、多くの後進を育てます。1959年には第5回日本国際美術展優秀賞、1963年藝術選奨文部大臣賞を受賞するなど、多くの賞を受賞し、各地で展覧会を開催しました。
作品の特徴とその魅力
麻生三郎の作品は、暗闇から浮かび上がる写実的な人物像が特徴です。暗く重々しい雰囲気を持つ点は、戦争の生々しさを体験した麻生三郎ならではの表現かもしれません。
暗い画面ではありますが、そこに佇む人々はリアルで、その呼吸までもが感じられるリアリズムが魅力です。じっとこちらを見つめる目の奥に宿る命の重みが、作品から伝わってきます。
【まとめ】麻生三郎は戦後の日本洋画を復興に尽力し近代洋画を確立した人物
麻生三郎は、戦前から戦後にかけて日本の洋画を守り、復興させることに尽力した洋画家です。自由に描くことが許されなかった時代でも、創作の手を休めることなく後世に残した功績は大きな評価を得ています。
麻生三郎の作品は、画面が暗く異質を放っています。しかし、描かれた人物の息づかいが伝わってくるほどに、重々しい空気がリアルに描かれているのが魅力です。
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