有島生馬は、明治後期から昭和にかけて活動した小説家・洋画家です。
ヨーロッパ留学中に出会ったセザンヌに惹かれ、日本にポスト印象派を広めた人物でもあります。原色で光と影を表現し、荒い筆づかいに見えながら描かれる人物の表情は繊細。また洋画家だけでなく、著作家でもあり、その活動の幅や人脈が非常に広い人物でした。
作品の評価が高いだけでなく、有島生馬は日本洋画の発展にも尽力しました。二科会を始め、一水会の創設にかかわり、日本美術院会員、日展常任理事に就任するなど、精力的な活動をしています。その功績により、文化功労者にも表彰されています。
プロフィール
1882年(明治15年)-1974年(昭和49年)
明治から昭和にかけて活躍した画家、小説家。
雨東生、十月亭などの号を使うこともあった。白樺派の発端となった文学同人誌『白樺』で連載を持ち、小説家のイメージが強いが、イタリア留学で本格的な西洋美術を学んだ経歴を持ち、日本の洋画壇を築いた人物でもある。帰国後は、二科会の創設にかかわり、文化学院講師、帝国美術院会員、日展常任理事など、次々と活躍の場を増やした。その功績が認められ、フランスではレジオンドヌール勲章授与、日本では文化功労者の称号を与えられている。
生い立ち
有島生馬の父は大蔵省関税局長・横浜税関長で、生馬は有島家の次男として、1882年に神奈川県横浜市で生まれました。1891年に父の仕事の都合で、東京都麹町永田町へ転居。生馬も麹町小学校へ転校するも、父親の退官後はさらに学習院初等科へ転校しています。そのまま学習院中等科へ進学しましたが、有島生馬は病気を患い中退。父の出身地である鹿児島県での療養を、余儀なくされます。
このころから、近松門左衛門などの古典文学や、西洋美術に興味を抱き始めました。
1901年になると、有島生馬は、現在の東京外国語大学イタリア語科へ入学。大学卒業後すぐに、洋画家・藤島武二に師事し、洋画の基礎を学びます。日露戦争が終わった1906年にイタリア・ローマへ留学し、本場の西洋美術に触れることとなります。アカデミー・ド・フランスや国立ローマ美術学校、グラン・ショミエールなどの美術学校へ通いながら、ヨーロッパの美術を見て回りました。
特に、セザンヌに強い感銘を受け、帰国後に『回想のセザンヌ』を出版するほどでした。有島生馬が帰国したのは1910年。文学同人誌『白樺』で執筆活動をしながら、洋画の制作も行い、1911年の文展に入選しています。1914年には、山下新太郎や津田青楓らと二科会を創設。二科会は、新人洋画家の登竜門としての役割を担い、現在もその活動を続けています。
1928年、有島生馬は娘らとともに再びフランスへ渡り、フランスの功労勲章であるレジオンドヌール勲章を授与されました。帰国後、二科会から脱退した安井曽太郎や、石井柏亭らと一水会を設立。さらに1937年、帝国美術院の会員となり、一水会の第1回展を開催します。1958年に日展常設理事に就任し、1964年には文化功労者に選出されました。1974年に亡くなるまで、昭和天皇のヨーロッパ歴訪で通訳を務めるなど、その活動の幅を狭めることはありませんでした。
有島三兄弟
有島生馬には、兄と弟がいます。兄は小説家の有島武郎、弟の里見弴(さとみとん)も小説家で、生馬も含めて有島三兄弟と呼ばれていました。兄の有島武郎は、アメリカ・ハーバード大学を中退し、帰国後に生馬と同じく文芸同人誌『白樺』にて本格的に執筆活動を開始。英語教師として働きながら、小説家としても作品を多く生み出しました。
武郎の長男、有島行光は、武郎の死後は生馬に育てられ、のちに俳優・森雅之として活動しています。弟の里美弴は、生まれてすぐに母方の親戚に養子に出されたため、本名は山内英夫です。兄2人と同様に、文学同人誌『白樺』で執筆をし、夏目漱石ら文豪との交流もありました。
作品の特徴とその魅力
フランスでセザンヌに魅せられた有島生馬の作品は、光の描写や鮮やかな色彩など、印象派の特徴を色濃く持っています。それまでの日本にはなかった、原色を主張した色彩の風景画が有島生馬の作品の魅力です。人物画も影と光を繊細に描写しており、セザンヌに代表されるポスト印象派を日本に持ち込んだ最初の人物らしい作品といえます。
【まとめ】日本にセザンヌの魅力を伝えた日本の印象派第一人者
有島生馬の功績は、多くの著書や洋画だけではありません。日本にいち早くセザンヌの魅力を伝え、ヨーロッパの近代美術を広めたことは、日本洋画界において大きな変化の波でした。有島生馬がセザンヌを熱く語っていなかったら、日本の洋画の発展は遅れていたかもしれません。原色を見事に使いこなし、ラフでいて繊細な光を描いた有島生馬の作品は、日本の印象派として大きな役割を果たしました。
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