高瀬好山(たかせ こうざん)は、明治~昭和の時代に自在置物を制作した金工です。
自在置物とは、金属工芸の1種で、鉄や銅の金属板を使って龍や蛇、伊勢海老、昆虫などの模型。写実性だけでなく、動物の動きをも再現する非常に精巧な工芸品です。
芸術性の高い自在置物ですが、始まりは江戸時代に武具を作っていた甲冑師たちと考えられています。武具の需要がなくなり、生活に困窮した甲冑師たちは、馬具や花瓶などの日用品の制作を始めました。そのなかで自在置物が工芸品として誕生したのです。
高瀬好山は自在置物の名工として、現在も国内外に人気のある金工です。当時は輸出用に、工房で自在置物の大量生産をおこなっており、作品の制作者が不明のものも少なくありません。しかし高瀬好山の作品は、その精巧さと技術の高さから現在も高い価値を誇ります。
プロフィール
1869年(明治2年)-1934年(昭和9年)
明治時代に、自在置物の制作に尽力した日本の金工。
自在置物の名工として、国内外で人気を博す。当時は国内での自在置物への注目度が高くなく、主に海外向けに制作されていた。
カマキリやバッタ、カブトムシなどの昆虫作品が有名である。
生い立ち
高瀬好山は、1869年に石川県金沢市に生まれました。多くの自在置物作家と同様に、高瀬好山もまた、生まれや活動の詳細についてすべてを追うことはできません。
幼少期は日本絵画を学んでおり、狩野派の技法を勉強していたといわれています。狩野派(かのうは)とは、15~19世紀に日本絵画の画家集団として活動した画派です。狩野正信が発起人となり、多くの将軍の御用絵師を仕えていました。江戸幕府以降は障壁画の制作を請け負っていたため、個性的な表現よりも伝統的な技法や集団としての筆法が求められたといいます。
14歳で神戸にある貿易会社に入社した高瀬好山は、陶磁器の製造に携わりました。
日本絵画を学んだ高瀬好山は、のちに富木伊助(とみき いすけ)に師事します。富木伊助とは、幕末から明治時代にかけて活躍した金工で、高瀬好山と同じ石川県出身の人物です。号を宗瀬といいます。富木伊助は京都で、左官工事で使用するこてを作っていましたが、蛇や龍、昆虫などの自在置物も制作していました。
高瀬好山が独立して京都に自在置物の工房を作ったのは、1893年24歳のとき。貿易会社に勤めていたスキルを活かし、販売や経営に長けていたといわれ、若くして工房をもつことになりました。当時の自在置物は国内向けのものではなく、海外向けに制作されており、高瀬好山の工房で作られた作品も、その多くが海外へ流れたとされています。
独立したあと、高瀬好山は数々の展示会に作品を出品。皇太子殿下の御買上にも預かりました。ただし、国内外の需要が高まったことで、高瀬好山は現場で作品を制作するというよりも、金工の指導や工房経営に力を入れていたともいわれています。
作品の特徴とその魅力
残念ながら、高瀬好山の作品は多く残されていません。
現在見ることができるのは、バッタ・クワガタ・セミ・トンボなどを銀と銅で作った『十二種昆虫』です。全種揃った作品は、三井記念美術館と笠間日動美術館に所蔵されています。
『十二種昆虫』をはじめとする高瀬好山の作品は、本物の昆虫のような動きをするように、パーツ分けされています。昆虫や動物の生態をよく理解していないと制作できないもので、その洞察眼と金属で動きを再現する技術の高さが特徴です。
また、清水三年坂美術館に所蔵されている『鯉』は、口やヒレが動く仕掛けになっています。生きた魚のように体をくねらせる高瀬好山の鯉は、その内部構造まで精巧に作りこまれているとされています。
謎に包まれた自在置物の名工・高瀬好山の作品は貴重
日本の金属工芸技術を、自在置物として海外にもたらした高瀬好山は、現在も高い人気を誇ります。自在置物の職人は現在ほとんどいないといわれており、工房での大量生産が主だった江戸時代後期~明治時代においても、高瀬好山ほどの技術をもった人物は希少でした。
高瀬好山の作品は、その動物があるべき姿・動きを完璧に作り上げ、魚が泳ぐ様さえ金属で再現するほどです。
現在、個人所蔵以外で高瀬好山の作品が見られるのは、限られた美術館だけ。今後はますますその貴重性が増していくでしょう。
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