安藤緑山(あんどう ろくざん)とは、象牙を使った彫刻作品を制作した牙彫の職人です。
牙彫(げちょう)とは、象牙を彫って作る根付細工や彫刻のこと。江戸時代から明治時代にかけてブームとなったが、1つひとつを細かく彫る必要があり、大量生産が難しいことから下火となりました。
貿易が盛んになった明治時代には、輸出品として牙彫作品が海外へ輸出されたため、海外コレクターにも注目度の高い職人・作品の多い分野です。
牙彫の職人は、作品は残っていても系譜については詳細は不明なことが多く、安藤緑山も謎の多い人物の1人です。弟子をとらずに作品を制作し続けており、その技法も近年の解析技術でやっと明らかになってきました。
ここでは、牙彫職人・安藤緑山のプロフィール・生い立ちと、その作品の特徴を紹介します。
プロフィール
1885年(明治18年)-1959年(昭和34年)
日本の彫刻家。
とくに象牙を用いた彫刻作品が多かった。通常の牙彫作品は、象牙の色をそのままに活かすが、安藤緑山の作品は彩色を施しているのが特徴。それゆえに、当時の主流からは外れており、彼の作品の評価は高くなかったといわれている。
弟子もいなかったため、死後も知名度は上がらぬままだったが、明治工芸に注目が集まった21世紀以降に認知度が上がった。
安藤緑山の技術を受け継ぐものがいなかったため、現在もその作品の構造や技法は不明。知名度が上がったことと、解析技術が向上したことから、近年技術の解析が進められている。
生い立ち
安藤緑山は、1885年に浅草(現在の東京都台東区)で生まれました。本名は萬蔵といいます。
小澤卯之助の次男として生まれましたが、3歳のときに父が死去。安藤家に養子として入ることとなりました。
高等小学校を卒業すると、大谷光利に師事して象牙彫刻を学びます。その後独立し、東京彫工会に所属しました。東京彫工会とは、当時の彫刻家の組合的な立ち位置で、都市部の彫刻家は加入を義務付けられていました。気難しい性格の持ち主であったといわれる安藤緑山も、この規定にのっとり東京彫工会に入っていたと考えられます。
1923年に起こった関東大震災の被害を受けた安藤緑山は、東京都豊島区へ転居。1943年には、太平洋戦争で日本軍が占拠していたインドネシア・スマトラ島へ行き、牙彫の技術指導をおこないました。しかし生涯に渡って、弟子と呼べる人物はいませんでした。
金田兼次郎との関係性
金田兼次郎とは、安藤緑山と同じころに、東京浅草に住んでいた象牙彫刻家です。牙彫商にも携わっており、東京彫工会の役員や日本美術協会の審査員などもおこなっていました。
一説には、安藤緑山が師事した人物ともいわれていますが、当時の記録は残っていません。安藤緑山は、「萬造」「萬像」などの号を用いていましたが、「金田」の銘が併記されている作品も多く、この「金田」が金田兼次郎を指しているのではないかと考えられています。真実は不明ですが、安藤緑山が展覧会へ出品する際に金田兼次郎をとおしていたことからも、その関係性が深いものであったことがわかります。
作品の特徴とその魅力
安藤緑山の作品は、ほかの牙彫とは異なり、色づけをおこなっていることが特徴です。
当時、象牙を使用した彫刻は、象牙の色をそのまま活かすことが主流でした。しかし安藤緑山は、彫刻した作品に彩色し、本物そっくりの見た目に仕上げています。ときには、色づけしたあとに彫ることで、象牙の色をだすこともありました。
果物や野菜をモチーフにした作品が多く、桜の枝や葉などの細かい造形を見事に象牙で再現しています。パイナップルのごつごつとした皮の硬さや、ももの柔らかさを象牙で表現する技術は圧巻です。
有名な作品に、『蜜柑』『桜桃』などがあります。とくに『蜜柑』の皮を表現した技術には目を見張るものがあります。作品は、清水三年坂美術館や京都国立近代美術館などで見ることが可能です。
幻の象牙彫刻家・安藤緑山についてはまだ不明点も多い
弟子もおらず、家族へ家業を引き継がなかった安藤緑山については、現在も不明な点が多い人物です。しかし、解析技術の向上や子孫の証言によって、少しずつその生涯が明らかになってきました。
安藤緑山が活躍していた時代は象牙彫刻家の数も多く、技法も主流ではなかったため、目立たない彫刻家の1人でしたが、近年その技術の高さが注目されています。
残した作品数は多く、時代背景から国内にとどまらず海外へと輸出されていました。そのため、海外のコレクターからの人気も高い彫刻家です。
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