康熙帝(こうきてい)とは、中国・清の第4代皇帝です/中国史に残る名君とされますが、実は幼少期に病気を患ったため城外で育ちました。
病気を克服した康熙帝は第3代皇帝であった父を継ぎ、皇太子となり、父の崩御後に8歳で即位します。
幼い頃は城外で同年代の庶民と交流があったとも伝えられており、庶民の暮らしを知っていたことが、後に功績を残せた理由かもしれません。
本記事では、康熙帝の生い立ちや功績を紹介します。
プロフィール
1654年-1722年
中国・清朝の第4代皇帝で、諱は玄燁(げんよう)。
日本では元号から康熙帝と呼ばれる。
在位したのは1661年から1722年。
西洋文化を取り入れ、清を改革した人物。
中国史における最高の名君と名高く、大帝と呼ばれることもある。
8歳の若さで即位したため、食以後は重臣らの助けを借りて国政を統治した。
実権を握ったのは、15歳のとき。
豪華な暮らしを避け、庶民的で質素な暮らしを好んだとされる。
食生活も質素だったためか、68歳の長命で崩御した。
生い立ち
康熙帝は1654年に、清の第3代皇帝・順治帝(じゅんちてい)の第三子として生まれました。
しかし幼い頃に痘瘡にかかり、城外で乳母と暮らすこととなりました。
父・順治帝は子への教育には力を入れておらず、城外にいる間、康熙帝は祖母にしつけられたと伝えられています。
皇族にもかかわらず、庶民の子と路上で遊ぶ生活をしていたとされ、庶民の暮らしぶりを間近で学んだと考えられます。
もし言い伝えが事実であれば、即位後の位の低い者に対する気遣かいは、この頃の経験が糧となったのでしょう。
順治帝が崩御したとき、康熙帝はまだ8歳だったため、即位後は父の命で4人の重臣が国政を担いました。
重臣の名は、スクサハ・ソニン・エビルン・オボイといい、初めこそ平等な政権運営が行われましたが、ソニンの死去によってオボイが横暴を働くようになります。
結局、オボイの横暴を見かねた康熙帝はオボイを排除し、15歳のときに新政を始めました。
1673年には、三藩の乱が勃発。
皇族の血筋でない呉三桂(ご さんけい)・尚可喜(しょう かき)・耿精忠(こう せいちゅう)の3人が統治する地域を康熙帝が没収し、廃止することに反発した反乱でした。
戦いは長引いたものの、清軍の優勢で反乱は鎮圧され、1683年には台湾までを制しました。
一方、康熙帝の統治した時代はロシア帝国との攻防も激しくなった時期です。
1683年にロシア帝国が南下し、清露国境紛争へと発展します。
1689年に、康熙帝は官人のソンゴトゥをロシア帝国へ派遣。
ネルチンスク条約を結び、両国の境界線を定めました。
これまで中国は他の国家を認めず、中国を唯一の国家とする考え方を示しています。
両国が平等に交わしたネルチンスク条約は歴史に残る快挙でした。
しかし、すべてがうまくいっていたわけではなく、1718年のチベット出兵では派遣軍をジュンガル軍に壊滅させられています。
康熙帝は68歳まで在位し、1722年に病気をきっかけに崩御しました。
康熙帝が悩んだ後継者問題
康熙帝は子どもたちへの教育に余念がなく、熱心に養育したと伝えられています。
特に次男の胤礽(いんじょう)を溺愛し、わずか2歳で皇太子に立てました。
しかし一人だけ甘やかすことはなく、他の皇子への配慮も忘れませんでした。
胤礽の即位は間違いないものとされましたが、激しい党派争いや陰謀の末、胤礽は皇太子を廃止されます。
その後も他の皇子による争いが続き、康熙帝の崩御後に見つかった遺言により第四子の雍正帝(ようせいてい)が第5代皇帝として即位しました。
モンゴルとの関係
モンゴルとの関係性を良好に保ったことも、康熙帝の功績の1つです。
毎年夏になるとモンゴルを訪れ、モンゴル王侯とともに狩猟に出たり、別荘を立てたりして過ごしたと伝えられています。
モンゴルとの関係性は、第5代・第6代皇帝まで引き継がれることとなりました。
作品の特徴とその魅力
康熙帝は、董其昌(とうきしょう)の書画を好んだとされています。
董其昌とは、明朝の時代末期に活躍した文人で、優れた書画を残した人物です。
そのため清朝では、董其昌の書画を正統の書としました。
また、第6代皇帝の乾隆帝も董其昌の書画を愛好していたと伝えられています。
康熙帝は清の文化的財産も重要視し、『康熙字典』や『大清会典』『全唐詩』などの編集を命じたことでも有名です。
また、『明史』のほとんどを完成させ、重要な書を多く残しています。
中国史に残る名君・康熙帝の功績
康熙帝は幼い頃から、庶民と接する機会が多く、位の低いものを気遣う様子もみせたとされています。
養育熱心な祖母に育てられ、中国の文化を重要視し、多くの書を編集してまとめました。
また康熙帝は、近隣諸国との関係性を大きく変えた皇帝でもあります。
ロシア帝国と条約を結んで国境を定め、モンゴルとは平和的な関係を継続させました。
ジュンガル軍との戦いにはてこずったといわれていますが、1720年に第二派遣軍を出し、見事打ち勝っています。
庶民的で質素な暮らしと、聡明さが中国史に残る名君とされる理由でしょう。
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