万歴帝(ばんれきてい)とは、中国・明の時代の第14代皇帝です。
内閣大学士の張居正(ちょう きょせい)の助けと、海外からの銀の流入によって、万歴帝のときに経済状況が好転。
しかし張居正の死去により、国政は悪化の一途を辿りました。
わずか10歳で皇帝に即位し、大国を指揮した万歴帝の生い立ちと残された遺物の特徴を紹介します。
プロフィール
1563年-1620年
1572年に、中国・明朝にて即位した第14代皇帝。
万歴帝は元号で、実際の諱は翊鈞(よくきん)だが、日本では万歴帝と呼ばれるのが一般的である。
10歳の若さで即位し、聡明だったと言い伝えられるが、実際は内閣大学士の張居正の力があってこそのものだった。
その証拠に、張居正の死去は国政が悪化し、万歴帝の強行な手段が国民の批判を浴びた。
明は万歴帝の在位中に勢力を落とし、「明朝は万歴に滅ぶ」とも揶揄される。
生い立ち
万歴帝が1563年、明朝の第13代皇帝・隆慶帝(りゅうけいてい)の第三子として生まれました。
父の隆慶帝は凡庸な皇帝だったとされ、実際に国政は側近の内閣大学士に委ねていたといわれています。
内閣大学士とは明・清の時代の管制で、皇帝の補佐機関となる内閣のことです。
内閣大学士の歴史が、日本の内閣制度の元になったと考えられています。
隆慶帝は36歳の若さで崩御したため、当時10歳の万歴帝が即位しました。
第三子の万歴帝は本来、帝位継承権第3位ですが、第一子、第二子が早世だったため、万歴帝が帝位継承しました。
わずか10歳だった万歴帝ですが、父の遺命により内閣大学士の張居正が実質政務を担当します。
張居正は、官職や公共事業の整備に努め、財政は一気に好転。
それまで問題となっていた満州女真族との紛争も、李成梁(り せいりょう)の働きで鎮圧でき、落ち着いた国政を取り戻しました。
張居正の活躍ばかり注目されますが、万歴帝も聡明で優秀な皇帝だったと言い伝えられています。
しかし、1582年に張居正が死去すると一転。
万歴帝の独裁が始まります。
のちの第15代皇帝、長子の泰昌帝(たいしょうてい)ではなく第三子の朱常洵(しゅ じょうじゅん)を溺愛し、皇太子にしようと内閣大学士たちと争いになることもありました。
また、日本で豊臣秀吉が起こした朝鮮の役や寧夏(ねいか)で起きた哱拝(ぼはい)の乱など、度重なる戦闘により疲弊。
潤っていた財政も乏しくなり、悪化の一途を辿ります。
さらに、一時は治まっていた満州女真族が再び内乱を起こし、勢力を強大化させます。
いくつもの問題を抱える中、万歴帝は政治に関わろうとせず、国家財政を個人的に使い込む体たらくでした。
官僚への給料を出すのさえ惜しみ、欠員を補充せずに閣僚や地方長官が激減。
それにもかかわらず、私腹を肥やすために徴税官による徴収を強化し、国民の反発を招きます。
結局、崩御までの後半25年間は政治の場には姿を現すことはありませんでした。
張居正の功績
張居正は、幼い万歴帝に代わって朝政を指揮した政治家です。
1525年に湖北省で生まれた張居正は、幼い頃から聡明で、12歳で生員と呼ばれる国士監に合格しました。
国士監とは隋の時代以降、中国の最高学府として設置された教育機関です。
生員になると、府学や県学などに配属され、士大夫と同等の扱いを受けられます。
士大夫とは、科挙官僚・地主・文人の三位を兼ね備えたものを指します。
生員も、士大夫と同じく懲役免除の特権を得ていました。
生員となった張居正は、16歳で郷試に合格。
郷試とは、科挙の地方試験です。
1547年に進士へと昇進し、翰林院の庶吉士になりました。
1567年に入閣し、国政に尽力するようになります。
1572年に第13代皇帝の隆慶帝が崩御すると、万歴帝の守役として明の財政を立て直したと伝えられています。
1581年に死去するまで、万歴帝の代わりに国政を牛耳りました。
作品の特徴とその魅力
万歴帝は、天象を描いた書を残しています。
代表的な書は『楷書紺紙金字妙沙経(かいしょこんしきんじみょうしゃきょう)』で、現在は東京国立博物館に所蔵されています。
この書は、初めに6仏6天象が、最後には韋駄天象(いだてんぞう)が描かれており、希少なものです。
『楷書紺紙金字妙沙経』は、文化元年に市河米庵(いちかわ べいあん)が長崎で入手した万歴帝の書です。
市河米庵は江戸時代後期の書家・詩人で、この万歴帝の書を何度も書き写したと伝えられています。
臨書によって、米庵の楷書を作り上げたともいわれています。
まとめ
万歴帝は明朝の第14代皇帝で、10歳の若さで即位した人物です。
非常に聡明であったにもかかわらず、私欲を満たすために国家財政を使ったり、国民に無理な徴税を迫ったりする暴君でもありました。
幼い皇帝をサポートしたのが、内閣大学士の張居正です。
張居正も幼い頃から才を発揮し、わずか12歳で生員となった経歴があります。
しかし張居正の死去後、万歴帝の新政は振るいませんでした。
それどころか、国家財政や紛争は悪化の一途を辿ります。
万歴帝は国政に関わることをやめ、晩年はまったく朝政に出てくることはありませんでした。
万歴帝が残した書は、東京国立博物館に所蔵されており、見事な韋駄天象が描かれています。
市河米庵の楷書の基礎にもなった書で、貴重な資料でもあります。
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