プロフィール
1944年(昭和19年)-2008年(平成20年)
兵庫県西宮市出身の日本の陶芸家。
高知県安芸市の古窯復興に尽力した。
また自身でも茨城県笠間市に窯を開いて、作陶に専念。
日本伝統工芸展に数多くの作品を出品した。
作品はろくろを使わず、すべて手捻りによる作陶を行った。
その造形力は、現代の日本陶芸へ大きな貢献を果たす。
1983年に日本工芸会正会員に就任するも、1990年からは団体に所属せず個人作家として活動したことでも知られる。
生い立ち
和太守卑良が生まれたのは1944年、兵庫県西宮市でした。
1962年に大阪府の高校を卒業後、京都市立美術学校(現在の京都市立芸術大学)の陶磁器専攻へ入学します。
1967年に卒業したものの、美術学校の初代学長・長崎太郎から思わぬ依頼が舞い込みます。
高知県安芸市の古窯を復興させたいとの依頼でした。
安芸市は1829年に窯が開かれ、登り窯で内原野焼(うちはらのやき)を作っていました。
内原野焼とは、木灰やワラ灰を原料にした釉薬を用いた焼物です。
しかし作られていた徳利やすり鉢などの需要が低下し、窯元も衰退。
そこで立ち上がったのが、京都市立美術学校の学長でした。
学長の依頼で高知県安芸市へ向かった和太守卑良は、仲間とともに窯元の復興に尽力しました。
和太守卑良らの活躍により、2020年時点で4つの窯元が活動を続けています。
1975年に出品した作品が、日本陶芸展で初入賞。
以降、日本陶芸展に毎年出品するようになります。
1977年になると和太守卑良は、茨城県笠間市に窯を開いて、本格的に作陶の研究を始めるようになりました。
その3年後の1980年に、ファエンツア国際陶芸展にて金賞。
さらに同年、北関東美術展で優秀賞を受賞しました。
1983年に日本工芸会正会員となりますが、これに前後して各地で個展を開催するようになります。
日本だけでなく、カナダやアメリカ・ニューヨークなどで日本陶芸の魅力を伝えました。
1990年には日本工芸会を退会し、無所属作家として活動していくことを決意します。
陶芸家として人気を博しており個展は盛況で、展覧会への出品も盛んに行っていきます。
1988年に日本陶磁協会賞、2008年に64歳で逝去しました。
高知県安芸市の手捻り陶芸と和太守卑良
和太守卑良といえば、ろくろを使わない手捻りによる造形が魅力。
実は、和太守卑良が大学卒業後に復興を手伝った高知県安芸市も、手捻りで造形する内原野焼が有名です。
内原野焼が安芸市で始まったのは1829年のこと。
安芸城の五藤主計が内原野の粘土を用いて、陶芸で地域発展させようと考えたことが始まりでした。
最盛期には6つの窯元が日用品を作っていたといわれています。
登り窯で大型の陶芸品を作っていましたが、高度経済成長により需要が急減。
窯元も衰退一途をたどりました。
そこに現れたのが、京都市立芸術学校の学長に指名された和太守卑良らです。
実はもともと、五藤主計が地域に窯を築く際、京都から陶芸家を招いて指南してもらった経緯がありました。
高知県安芸市と京都、古くからのつながりにより復興を果たすこととなります。
和太守卑良の手捻りも、安芸市の内原野焼を研究したものです。
釉薬による美しく深みのある色味と、手捻りによる多彩な造形が多くの人の目に触れることになったのは、和太守卑良らの力があってこそでした。
作品の特徴とその魅力
和太守卑良の作品は、杉紋や雲花紋が特徴の作品が魅力です。
紋様は繊細で、ろくろを使わない造形はバリエーション豊か。
故に多彩な作品が生まれ、個展は国内外一貫して人気でした。
細部までこだわった絵付や色の異なる粘土を組み合わせた色彩豊かな作品は、和太守卑良の魅力でしょう。
特に有名な作品は、黒と赤、白などの紋様が組み合わさった『函文器』や細かい絵付けが印象的な『発彡文器』などです。
和太守卑良は比較的大きな文器も多く残していますが、酒盃やぐい呑など小型の作品も多くあります。
日本の伝統的な技術を発揮しながら、独創的な造形で自らの世界観を表現した和太守卑良の作品は、今日も高い評価を得ています。
和太守卑良の活躍と残したもの
和太守卑良は、若くして陶芸家として才能を発揮した人物です。
京都で陶芸を学び、伝統的な古窯の復興という使命を持って活動を続け、現在の日本陶芸の技術維持に大きな貢献をしました。
自身の活動も積極的で、数多くの作品を残したといわれています。
個展ではすぐに作品が売れてしまうほど、国内外に人気の陶芸家です。
作品はろくろを使わない手捻りで、色の異なる粘土を組み合わせた鮮やかな色彩が特徴です。
繊細な絵付や独創的な造形も、人気の理由でしょう。
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