日本の美術史の中でも「書」は高い人気を誇るジャンルの一つですが、古来多くの能書家を輩出してきたのが仏教界でした。
文字を書くことは公私を問わず日常的に行われてきた営みですが、名僧の墨跡は軸として床に掛けられるなど珍重されてきた歴史があります。
そんな書が愛された時代に、「良寛」という1人の僧侶の名が挙げられます。
自由で純朴な生き様や数多く残した和歌などでも知られる人物ですが、本記事では良寛のプロフィールや生い立ちを概観しつつ、特に書道作品とその魅力をご紹介します。
プロフィール
1758年(宝暦8年)‐1831年(天保2年)
18世紀半ばから19世紀前半にかけて活動した曹洞宗の僧侶で、書家や歌人としても知られる人物。
越後国(現在の新潟県辺り)の名主(庄屋)の家に生まれるも18歳で出家。
34歳で諸国行脚の旅に出、生涯自身の寺を持つことなく流浪の身で仏法を説きました。
和歌や書に秀でた文化人でもありましたが市井に身を置き続け、民衆から親しみを込めて迎えられていたといいます。
日がな一日子どもたちと遊んでいた心温まるエピソードがよく知られています。
生い立ち
良寛は1758年(宝暦8年)10月2日、越後国出雲崎(現在の新潟県三島郡出雲崎町)の名主・橘屋の長子として生を受けました。名を英蔵、号を大愚としています。
名主とは関西地方で庄屋のことで、父・以南は神職を兼務し俳句も嗜む人物でした。
良寛は家業の名主職を継ぐべく16歳頃から見習いに就きましたが、18歳にして突如出家し地元の曹洞宗寺院・光照寺で修業の生活に入ります。
ちょうどその時の、凶作・天災・疫病などの影響から起こる米騒動の紛争調停、犯罪者の処罰などに悲観してのことだったとも伝わります。
良寛は22歳の時に、備中国玉島(現在の岡山県倉敷市)円通寺の国仙和尚を生涯の師として修行に明け暮れます。
円通寺の規則は厳しくここで12年間を過ごした良寛は、母親が亡くなる間際にも会うことはありませんでした。
良寛が34歳の時、師・国仙和尚の遺言に従って諸国行脚へと旅立ちます。その間、父親の訃報に接してもやはり帰郷せず、和歌などを学びつつ放浪を続けて48歳の頃に越後国蒲原郡国上村(現在の新潟県燕市国上)の国上寺・五合庵にて書を学びました。
子どもたちと日がな一日遊んだり、たけのこを見つければその場所を子供たちに譲ったりエピソードの多くは、この時代のものとされています。
良寛は五合庵で13年ほどを過ごしましたが、階段の昇降が辛くなったとして乙子神社境内の庵に居を移します。
良寛円熟期の書とされる作品が生み出され、書家としての認知も進んでいきました。
70歳で現在の新潟県長岡市、島崎村の木村元右衛門邸内に住まうようになり、72年の生涯を閉じました。その魂は同地の隆泉寺に眠っています。
良寛の弟子
良寛の弟子として最も有名といっても過言ではないのが「孝室貞心尼(こうしつていしんに)」ではないでしょうか。
若くして夫と離縁した貞心尼が良寛の元を訪ねたのは1827(文政10)年のことでした。
この時は良寛が不在で面会できなかったものの、貞心尼は手毬に和歌を添えてメッセージを伝えます。良寛が子供たちと遊ぶために、いつも袋に手毬をしのばせていると知ってのことでした。
これに良寛が返歌を送り、二人は年の差40歳の師弟となりますが、歌のやり取りからは恋とも師弟愛ともとれる深い心の交流があったことをうかがわせます。
良寛の最期を看取ったのも貞心尼で、『蓮の露』という歌集を編纂しています。
貞心尼は1872(明治5)年、74歳で亡くなりました。
良寛作品の特徴とその魅力
良寛は生涯を通じていくつもの歌や漢詩などを残しましたが、本記事では特に「書」を取り上げます。
書の達人として知られる良寛ですが、実は全てが能筆というわけではなく、もっと自由で独特なスタイルの趣を持っています。
良寛の書の特徴は、草書体を中心に流れるような自由さと線が非常に細いという点にあります。
これを日本の書道における一つの到達点と評価する声もありますが、整っていて立派であることよりも、何にも囚われない自由さを感じさせるところに良寛の書の魅力があるといえそうです。
存命中にも書家として名を馳せましたが、有力者からの制作依頼は積極的に受けることがなく、むしろ子どもたちにねだられて凧に一筆書いたエピソードが残されています。
良寛の書はこうした逸話をも含めた楽しさにも魅力があるでしょう。
自由の僧、良寛
良寛は先述した子どもたちや貞心尼との交流など心温まるエピソードの数々で、今なお多くの方に慕われています。
自由闊達で優しい生き様は、現代社会に生きる私たちにとって道しるべの一つでしょう。
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