「レトロモダン」という言葉があるとおり、制作年代の古いデザインや製品が持つかわいらしさやおしゃれさといった要素が現代的な感覚でも色あせないことは珍しくありません。
日本での近代以降の芸術活動においても明治レトロ・大正モダンなどの表現が使われるように、そうした琴線への触れ方は時代を超越するものでしょう。
近代洋画壇で長きにわたって中心的な役割を果たした「藤島武二」もまた、そんな作品で知られる作家の一人です。
圧倒的な画力に裏打ちされた正統派の作品から、本の装丁などに使われたレトロポップなデザインまで、武二の画業を抜きにして日本洋画の歴史を語ることは難しいといっても過言ではありません。
本記事ではそんな藤島武二のプロフィールや生い立ちを概観しつつ、作品とその魅力についてご紹介します。
プロフィール
1867年10月15日(慶応3年9月18日)‐1943年(昭和18年)3月19日
明治から昭和初めの時代にかけて活躍した日本の洋画家。
東京美術学校(現在の東京藝術大学)での半世紀近くにもわたる指導、文展や帝展での活動など近代日本洋画壇の重鎮として主導的な役割を果たしました。
宮内省(現在の宮内庁)による美術家等の顕彰制度である帝室技芸員に選ばれ、最初の文化勲章受章者としても知られています。
生い立ち
藤島武二は1867年10月15日(慶応3年9月18日)、薩摩国鹿児島城下池之上町(現在の鹿児島市池之上町)に薩摩藩士・藤島賢方と母・たけ子の三男として生を受けました。
幼少期に鹿児島で著名だった四条派の画家・平山東岳について学び、1884年(明治17年)に上京。川端玉章に師事して日本画を志しました。
しかし24歳頃に洋画へと転向。1890年(明治23年)に洋画家の曾山幸彦・中丸精十郎・松岡寿らにつき、その翌年山本芳翠が主催する生巧館画学校に入学。
1893年(明治26)年からは三重県尋常中学校(現在の三重県立津高等学校)で三年間教鞭を執りました。
1896年(明治29年)、洋画家・黒田清輝の推薦により武二は東京美術学校(現在の東京藝術大学)の助教授に就任し、以後ほぼ生涯にわたって同校の教壇に立ち続けました。また黒田清輝主催の「白馬会」にも参画しており、同年の第1回展から出展を続けています。
1901年(明治34年)の2月頃からは歌人の与謝野鉄幹・晶子が主催した雑誌『明星』の装丁を手掛け、好評を博しました。この担当はおよそ六年間続き、与謝野晶子の歌集『みだれ髪』ではアール・ヌーヴォーを取り入れた表紙が話題となりました。
1905年(明治38年)に文部省からの命で四年間のヨーロッパ留学に赴き、フランスやイタリアで過ごしています。パリではフェルナン=コルモン、ローマではカロリュス=デュランらに師事しましたが、ローマで空き巣の被害に遭ったことでフランス時代の作品はそのほとんどが失われてしまいました。
1910年(明治43年)に帰国後、武二は東京美術学校教授に就任。後に川端画学校でも教授を務めています。
以降の武二の画業はやや筆が停滞したといわれることもありますが、装飾的な表現を取り入れた独自の画風が醸成され、重厚かつ円熟した境地に至ったと評されます。
1928年(昭和3年)には宮内省(現:宮内庁)からの依頼で皇居学問所を飾る作品の制作に従事。各地を回って写生を続けるという体験を通し、連作風景画に取り組むことにもなりました。
1934年(昭和9年)12月3日に帝室技芸員となり、1937年(昭和12年)には初の文化勲章受章者の一人に名を連ねました。
1939年(昭和14年)には陸軍美術協会副会長に就任、同年の第1回聖戦美術展においては審査委員長を務めています。
武二は1943年(昭和18年)3月19日、脳溢血のため77年の生涯を閉じました。その魂は青山墓地に眠っています。
藤島武二作品の特徴とその魅力
藤島武二という画家の特徴を考える際、伝統的な日本画の教養をベースとして本格派の洋画を学び、なおかつアール・ヌーヴォーに代表される新進の潮流を大胆に取り入れることのできた柔軟性が特筆されます。
正統派の油彩はもとより、どこか幻想的でオリエンタルな作品群はロマン主義的と評価されることもありますが、ここでは与謝野晶子の歌集『みだれ髪』の表紙デザインを取り上げてみましょう。
有名なこの装丁は、イラストタッチな女性の横顔をハートの意匠が囲んでいます。女性の髪は歌集のタイトルを思わせるように千々に乱れており、それを斜めに貫いているのは矢です。矢尻の先から伸びる線は花の模様につながっていて、ハートの下には「ミだれ髪」の文字がカリグラフィを思わせる流麗な書体でデザインされています。
現代のアートシーンでも色あせないような洒脱な装丁は、絵画的であると同時に強力なデザイン要素を併せ持っています。こうした卓越した構成力も、藤島武二作品の大きな魅力の一つといえるでしょう。
日本近代洋画壇の重鎮、藤島武二
日本の洋画壇で長きにわたって指導的な役割を果たしてきた藤島武二。
洋画を専門とするものの、彼は回想の中で初期に学んだ日本画の影響を強く受け続けている自覚を語っています。歴史に残る作品群のバックボーンには、これら終生をかけた学びの要素が凝縮されているかのようです。
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