日本画と洋画における技術的な相違点の一つに、立体表現の有無があるといわれています。
それは日本画の特徴に平面的な表現が多用されることにも関係していますが、陰影のつけ方や描き方に根本的な方針の違いが見られます。
洋画には光と影を表現する技術に目を見張るものが多くありますが、日本人画家でもその描写力が二つ名のように評価される人物がいるのをご存知でしょうか。
その代表格が「宮永岳彦」です。彼の死後、1990年に開催された回顧展では「光と影の華麗なる世界」というサブタイトルが設けられたことからも、その技量のほどを推し量れます。
本記事ではそんな宮永岳彦のプロフィールや生い立ちを概観しつつ、作品とその魅力についてご紹介します。
プロフィール
1919年(大正8年)2月20日‐1987年(昭和62年)4月19日
大正から昭和時代を生きた日本の画家。
作風や制作ジャンルの多様さで知られ、油絵をはじめとしてポスター・書籍表紙・書籍装丁・挿絵・水墨画等々、多くの分野で第一級と評される業績を残しました。
美術団体・二紀会の理事長を務め、紺綬褒章並びに勲四等瑞宝章(現:瑞宝小綬章)を受章しています。また、明治期以降2018年までに宮内庁許可のもと皇室肖像画を描いた唯一の作家としても有名です。
生い立ち
宮永岳彦は1919年(大正8年)2月20日、父親の転勤先だった静岡県磐田郡(現在の磐田市)で生まれました。
幼少より絵を好んだといい、岳彦を工芸家にしたいという父親の意向もあり1931(昭和6)年名古屋市立工芸学校(現在の名古屋市立工芸高等学校)に進学。卒業後の1936(昭和11)年に百貨店の松坂屋名古屋本店に入社しますが、1939(昭和14)年に第二次世界大戦が勃発し二度の兵役を経験しています。戦時中の1942(昭和17)年には第29回二科展において初の入選を果たしました。
終戦後の1946(昭和21)年に復員。実家のある神奈川県秦野市へと戻り、同年から松坂屋銀座店宣伝部勤務となります。岳彦は会社員としての勤務と並行して秦野、後に新宿を拠点に芸術作家としての活動を行うようになりました。
岳彦の画業を振り返ったとき特筆される点に彼の手掛けたジャンルと画風の多様さが挙げられますが、先に述べたように油絵をはじめとしてポスターや書籍などの商業印刷物、イラスト、水墨画、工業製品のカラーリング等々での実績が知られています。
そのうち1955(昭和30)年に発売されたぺんてる株式会社の「ぺんてるくれよん」はパッケージに岳彦のイラストを採用しており、現在に至るまで使用され続けています。
また、1957(昭和32)年に運用開始された小田急電鉄の特急車両、いわゆる「小田急ロマンスカー3000形」の車体カラーリングデザインも手掛けました。シルバーグレーとオレンジヴァーミリオンの二色を主体にホワイトのアクセントが生える印象的な配色は、後世の車両カラーにも継承されています。
1972(昭和47)年には美術団体・二紀会の理事に就任。1974(昭和49)年にはブラジル・日伯文化協会の依頼を受け、宮内庁正式許可のもと皇太子・明仁親王(現・上皇)と皇太子妃・美智子(現・上皇后)の肖像画を描きました。
同年に神奈川県秦野市労者表彰受賞。1979(昭和54)年に日本芸術院賞を受賞し、1986(昭和61)年に二紀会理事長に就任。同年、紺綬褒章を受章しました。
その翌年、1987年(昭和62年)4月19日に消化管出血により満88歳で永眠。勲四等瑞宝章(現:瑞宝小綬章)を受章しました。
宮永岳彦作品の特徴とその魅力
宮永岳彦作品の特徴と魅力は、その画業が非常に幅広いためどのジャンルを取り上げるかによってさまざまなものがあります。
あまりの制作バリエーションから「器用貧乏」との批判を受けた時代もありましたが、岳彦はそれを全く意に介さなかったといいます。
いずれのジャンルでも先駆的な業績を世に示した宮永岳彦ですが、ここでは特に油絵の「美人画」にフォーカスしてみましょう。
明治期以降2018年まで、唯一公式に皇室肖像画を手掛けた確かな技術は、巧みな「光」の表現に集約されているといいます。例えばステンドグラスを背景とし、光と影のコントラストを鮮明にすることで女性美を表現するという技法が挙げられ、岳彦の代名詞的な画業の一つといっても過言ではありません。
また海外の女性の民族衣装にも深い関心を寄せ、その装束を実際に用いる民族の方を大使館などでモデルとして探すなどのこだわりをもって制作しました。
このようなことから、感覚のみならず現実の観察眼にも優れた作家だったことの証ともいえ、宮永岳彦作品の魅力を支える要素の一つといえるでしょう。
華麗なる光と影の画家、宮永岳彦
宮永岳彦の多岐にわたる画業は現在も新鮮な驚きをもって評価され、そして愛され続けています。
商業デザインの分野でも「宮永のポスターを見ない日はない」と評されたほど、その作品は多くの人々の記憶に焼き付いていることでしょう。
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