安井曾太郎
やすいそうたろう

日本における本格的な近代洋画壇の形成は明治時代にその萌芽があり、多くの優れた画家を輩出しました。

彼らの中にはヨーロッパに渡って本場の芸術を肌身で感じ、その学びを自国へと持ち帰って日本洋画の発展に尽力した人材も少なくありません。

そんな明治期に渡欧して以降の日本洋画壇を牽引した画家の一人が「安井曾太郎」です。主に昭和期を代表する油彩画家として著名で、同時代を生きた梅原龍三郎とは双璧と称されることもあります。

本記事では安井曾太郎のプロフィールや生い立ちを概観しつつ、作品とその魅力についてご紹介します。

プロフィール



1888年(明治21年)5月17日‐1955年(昭和30年)12月14日
明治から昭和期を生きた日本の洋画家。

梅原龍三郎と並んで昭和期を代表する洋画家として知られ、特に印象的な婦人画の数々が有名です。

東京美術学校(東京藝術大学美術学部・同大学院美術研究科の前身)教授や帝室技芸員を務め、文化勲章も受章しています。

生い立ち



安井曾太郎は1888年(明治21年)5月17日、京都市中京区で木綿問屋を営む父・安井元七と母・よねの五男として生を受けました。

1894(明治27)年4月に京都市生祥尋常小学校入学。1898(明治31)年4月に京都市立商業学校に入学しますが、やがて絵画の道を志望するようになります。商人の子として家業を継ぐことを希望する両親を説得し、1903(明治36)年に同校本科一年次を修了後に退学。以降は同校の図画教師であった清水亮太郎に師事して鉛筆画と水彩画を学びました。

翌年、聖護院洋画研究所(のちの関西美術院)に入所して浅井忠や鹿子木孟郎に師事。同時期にはのちに昭和洋画壇の双璧ともいえる梅原龍三郎もここで絵画を学んでいました。

1906(明治39)年に関西美術院が設立されるとそちらへと移籍しますが、翌年4月に同じ京都出身の画家・津田青楓がヨーロッパに渡ることを聞き、彼に同行することを決意します。渡欧に際して曾太郎はそれまでに制作した作品を焼き払ったと伝わり、そのため彼の初期作品はほぼ現存していないといわれています。

同年6月、フランスに至った曾太郎はパリのアカデミイ・ジュリアンに入学。ジャン・ポール・ローランスに師事して最初はリュ・ドゥ・テアートルに、12月にはパリ郊外のヴィトリーに居住しました。

およそ七年にわたるヨーロッパ滞在時代にはフランスの他にイギリス・スペイン・イタリアなども訪れて創作の刺激を得て、特にセザンヌの影響を色濃く受けたとされています。

1914(大正3)年に第一次世界大戦が勃発し、折からの健康状態悪化もあり曾太郎は日本に帰国します。翌年10月にはヨーロッパ時代の作品44点を第2回二科展に出品。二科会会員に推挙され、師の鹿子木孟郎の後任として関西美術院の教壇に立つようになりました。

その後二科展を中心に作品を発表し続け1922(大正11)年には平和記念東京博覧会洋画部審査員に就任しますが、十年あまりは曾太郎にとって画業の低迷期ともいわれ、安定しない健康状態を抱えつつ画風を模索した時期だったと考えられています。

曾太郎が独自の画風を確立したのは1930(昭和5)年に発表した『婦人像』からとされ、その様式は「日本的油彩画」と呼ばれることもあります。

1935(昭和10)年には帝国美術院の会員となりますが、曾太郎が長く拠点とした二科会は元来が「文展」に対する官ではなく民、つまり在野の画家による組織であったため、その設立趣旨から二科会を離れることになりました。

翌年には有島生馬・山下新太郎・石井柏亭らと美術団体・一水会を結成。曾太郎は以降生涯にわたって同会の委員を務めています。

1937(昭和12)年には新たに始まった新文展の審査員となり、1944(昭和19)年に東京美術学校教授に就任しました。また同年7月1日に帝室技芸員の選定を受けています。

1946(昭和21)年には埼玉県蕨町(現在の蕨市)に蕨画塾を開いて同塾の教授を務め、戦後の『文藝春秋』の表紙を手掛けたことはよく知られる業績の一つです。

1952(昭和27)年に文化勲章を受章。1955(昭和30)年12月14日、肺炎のため満67歳で生涯を閉じました。

安井曾太郎作品の特徴とその魅力



昭和期を代表する洋画家とも称される安井曾太郎ですが、その作風は先に述べたように「日本的油彩画」と表現されることがあります。

それは独特なリアリズムの追求に裏打ちされた確実な技量に支えられており、戦前から高い評価を受けてきた作家の一人です。

画家の内田巌は曾太郎の芸術を鑑賞者の直感的な評価よりも、技術面での理解へと広がっていくことを指摘しています。

観る者のアプローチによって多様な美を現わす作品群であり、それが安井曾太郎という画家の魅力の一つになっているのでしょう。


昭和期を代表する洋画家、安井曾太郎



安井曾太郎は一つの作品に対して非常に長い時間をかけて取り組む作家としても有名でした。対象の人生と職業までをも描こうとする写実への思いと、そのひたむきでストイックな仕事が多くの名作を生みました。

そうして安井曾太郎の作品は日本洋画の範例を示すものとなり、昭和期を代表する洋画家といわれるようになったのです。
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