呉昌碩
ご しょうせき

1844年(天保15年)‐1927年(昭和2年)
中国の清朝末期から近代にかけて活躍した画家、書家、篆刻家。
唐時代初期に出土した石碑と、それに刻まれた文字である石鼓文の研究に熱心で、始皇帝が文字を統一するよりも前に用いられていた大篆の例とされる字体を好み、
手がけた作品のモデルにしたと言われています。父親や塾から学んだ篆刻で才能を発揮し、多くの作品を生み出しています。
清代最後の文人といわれ、詩・書・画・篆刻ともに精通し、「四絶」と称賛されています。
中国近代でもっとも優れた芸術家と評されています。
篆刻の評価が高く、浙派、鄧派の影響を受け、さらに石鼓文などを通して独自の刻風を生み出しました。

清朝末期に生まれ84歳で没した呉昌碩ですが、その人生は波乱に満ちたものでした。名家に生まれ16歳までは比較的安定した暮らしでしたが、太平天国の乱でその生活は一変しました。避難のために一家は離散し、放浪生活の間に弟と妹、そして許嫁を失うという悲劇に見舞われます。それでも篆刻や書、詩などを学び続け、50歳を過ぎて本格的に画を学んだ頃、画名が高まり書や篆刻も高値がつくようになります。その後、篆刻や書画の研究を目的とする学術団体の西印社の社長に就任し地位も名誉も手に入れますが、呉昌碩自身は耳や足の不調を抱えながら、夫人の医療費と子供の負債のために作品を制作するという状況でした。84歳でこの世を去るまで、どんな窮地に立たされようと作品を作り続けた呉昌碩は、日本人とも多く交流を持っていたため、多くの作品が日本にも残されています。

作品の魅力


呉昌碩は、特に篆刻を得意としていました。中国の著名な流派から学び、受けた影響と石鼓文の研究を通して生まれた独自の刻風が高く評価され、日本でも著名な政治家などが自用印を注文したとされています。あまり切れ味が良くないため削り過ぎることがなく、力を入れてコツコツと時間をかけて彫れる鈍刀という彫刻刀を好んで使っていましたが、50代を過ぎて肩を壊してからは、篆刻の作品はあまり多くありません。
書は、石鼓文に基づいて篆書体に新しい様式を確立しました。その独特の文字は趣のある美しさを放っています。画上に書かれた書には行草書も多く残されています。画は、明や清の画人から多くを吸収し、花を咲かせる草などを描く花卉画を得意としました。狂草という草書体をさらに崩した書体の技法や、絵のような文字を書く篆書という書体での技法を、画に積極的に応用したため、花や山の絵も文字のような独特の風味を醸し出しています。そして、文人と呼ばれる人は漢詩を書くケースが多いですが、呉昌碩も、作品が欲しいという声に応え、詩作にも励んでいました。
篆刻や書、画における呉昌碩作品の魅力は、筆感の迫力と重厚感、そして繊細でありながら力強いという独特の世界観です。少し右上がりの独特でパワフルな文字や、生命の静けさと強さを感じさせる花卉画など、呉昌碩の作品は多くの人を魅了しています。
篆書詩
篆書詩経一節
四季挿花図磚鼎款識
彝器款識冊題箋
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