驚くほど病的でもあった潔癖症の持ち主
岸田劉生の作品の中でも注目を集めているのは、不思議な魅力を醸し出している麗子微笑というシリーズの絵で、油彩や水彩などさまざまな画風の50作品が今も残されています。非常に潔癖だったことでも知られている岸田劉生は、病的なほどの神経質だったと言われています。トイレでは紙を1丈も使っていたと言われていますし、腕に汚物がついた瞬間には、腕を切り落とすように叫んだとも伝えられているほどです。社交的とはかけ離れた存在であり、癇癪持ちだったことも知られています。
1920年あたりには、借りていた貸別荘があった鵠沼に多くの画家も集まってきます。肺結核ではなかったと言われていますが、非常に多くの画家が集まってきた時期で、岸田劉生が最も充実していたと考えられている時期です。
ところが、この幸せな時間も長く続きません。1923年に関東大震災が発生し、自宅としていた建物も倒壊してしまいます。住む場所を失ったことで、京都に移り住むことになり、さらに鎌倉に住居を移しました。鵠沼に住んでいた当時に結成した草土会も自然と解散状態となり、多くは春陽会に移っていきました。岸田劉生自身も活動の場を春陽会に移しています。
1929年には、初めて海外へ赴きます。生涯で1回だけの海外旅行でしたが、大連やハルピンなどに滞在して帰国し、一緒に同行していた画商の田島一郎の郷里である山口県に滞在しました。約3週間の滞在の中で、胃潰瘍と尿毒素症を発症し、38歳で亡くなってしまいます。多磨霊園にある墓碑には、武者小路実篤と川端康成、梅原龍三郎の名前などが刻まれています。
国の重要文化財にも指定されている麗子微笑に見る写実
岸田劉生は、多くの作品を残した作家でもあります。印象派の画家からスタートし、さまざまな変遷を経ながら写実的な作風を残しました。ときには模倣を意識していたという時期まであり、中国の宋元画まで取り組んでいたことで知られています。
麗子微笑の中でも、8歳のときの彼女をモデルとしている「麗子微笑(青果持テル)」は傑作中の傑作として知られていますが、実際には10日ほどで描かれたことがわかっています。国の重要文化財にも指定されていて、モナリザをオマージュしたのではないかと言われている部分も見られます。口元の微笑みや情念性が醸し出されている点から、モナリザの微笑みを踏まえて描いたのではないかという研究者からの指摘がありました。後世の評価ではなく、岸田劉生自身の解説として、ゴヤから影響を受けたこともわかっています。
写実の手法を取り入れながらも、絶妙なバランスで青果を持たせています。頭とのバランスを見れば奇妙なところがありますが、これがすべて計算の中で表現されているのが、岸田劉生の能力の高さを示していると言えるでしょう。表面上の美しさだけではなく、内なる部分に美を求めた作品のひとつです。
人物画として注目を集めていますが、肩掛けを見てみると、糸がほつれる細微な様子まで描写しています。写実という面で、ほんのわずかな部分にまで注目し、非常に細かく克明に描かれているのは圧巻です。その瞳を見てみると、光が1点だけ描かれており、生命力にあふれている様子が表現されています。神秘性まで感じさせるまなざしに微笑みを見ると、この作品の素晴らしさを感じ取れるでしょう。
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