木版画に目覚めて広がる世界的な評価
1903年に吉田博は再びアメリカに渡り展覧会を開催しました。翌年にはセントルイス万博に出品し、銅賞碑を受賞しています。2度の渡米により、吉田博の画風の基礎が完成され、豊かな描写ができるようになった時期でもありました。
1907年の30歳を過ぎたころには東京府勧業博覧会で賞を受け、第1回文部省美術展覧会でも受賞するなど活躍していきます。1924年以降は帝国美術院博覧会で委員や審査員を務めるようになり、日本の洋画家として高い知名度と評価を受けるようになりました。特に山岳と建築物をモチーフにする傾向が強く、夜の光の特徴を表現したものが吉田博の作品として数多く見られます。
吉田博のもうひとつの評価として木版画がありますが、スタートしていくのは1920年のころです。版元であった渡辺庄三郎と出会ったことから、木版画を始めています。1921年にシリーズを作り上げ出版しますが、1923年に関東大震災で被災し、版木を含めすべて焼失してしまっています。それでも自身で結成した太平洋画会の会員を救うために、木版画を制作し、アメリカへ売りに渡ります。これも高い評価を受けますが、当時アメリカで売買されていた日本の粗い浮世絵版画を見たときに、これでは恥ずかしいと思い、作風が温和な木版画へと変化していくようになります。葛飾北斎から影響を受けたと考えられる「冨士拾景」など、富士山を多く描いています。
さまざまな作品を制作していく中、戦時中は画家として従軍し中国にも赴いています。戦後はヨーロッパでの知名度の高さから、アトリエは版画刷りの実演をしたり解説をしたりと進駐軍が多く集まるサロンのような雰囲気を持っていたと言われています。マッカーサー夫人も訪れていたことが分かっており、米軍の将校クラブで版画の講習などもしていました。
飛びぬけた描写の能力
吉田博の木版画は、日本画ならではの輪郭線をしっかりと描いていながら、版画の色彩がすっきりとした様子を取り込んでいて、さらに洋画の多くで取り入れられている立体感や遠近法を用いているのが特徴です。さらに、もともと描いていた油彩画や水彩画に加え、木版画でも世界各地の風景を描いていたことと、非常に繊細な作風から、吉田博の評価は、日本より海外のほうが高かったと言われています。
このように多彩な技法の上に作り上げられていますが、これまで使われていた版木の数とは比較にならないほどの多色刷りを採用しています。そのため、木版画のもととなる版木を手に入れたとしても、同じものは制作できないとされています。
吉田博が描いている作品のひとつに、山岳風景があります。60歳のときに日本山岳画協会を結成するほど、彼の山岳に対する強い気持ちが作品にも表れています。また、吉田博の特徴として、水の美しさもあります。河川を描いた作品も多数ありますが、静観なものもあれば水の勢いを感じるものなど、どれもが違う雰囲気を作り出してきています。吉田博は、水を描かせたら右に出るものはいないと言われたほどの実力および感性の持ち主で、「瀬戸内海集 帆船 朝」では水面に反射している太陽の光のきらめき具合や、水の揺らぎ具合を帆船の影で見事に表現している様を見てとれます。
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