永楽帝
えいらくてい

中国の英語表記である「china」が磁器や陶器といった焼物の意味であることはよく知られています。

国を表わす言葉となるほどに、その陶磁器の品質が世界的に評価されたという証といえますが、中でも「景徳鎮」というブランドが真っ先にイメージされるのではないでしょうか。

現在では江西省の東北部に位置するこの町には、1368年~1644年に栄えた「明(みん)」の時代初め頃に宮廷御用達の官窯が設けられました。

それを主導したのが明朝第3代皇帝である、通称「永楽帝(えいらくてい)」です。

歴史的にも東洋磁器の最高峰として、今なお世界中で愛される景徳鎮の器。

そんな美術史に残る窯業の先駆となった永楽時代の皇帝とは、どのような人物だったのでしょうか。

本記事では永楽帝のプロフィールや生い立ちを概観しつつ、永楽時代の特徴的な作品とその魅力についてご紹介します。

プロフィール


1360年(至正20年)‐1424年(永楽22年)
中国・明王朝の第3代皇帝。

明王朝初代皇帝・洪武帝の実子であり、甥である第2代皇帝・建文帝に反乱を起こし1402年(建文4年)に即位しました。

幼少より頭脳明晰で博覧強記だったことが伝えられ、初代・洪武帝は自身の後継者となることを希望したといいます。

明王朝における最大の版図を築いたのが永楽帝であり、鄭和の船団を派遣して世界中を航海させるなど大きなスケールの視野をもった人物でした。

また災害による被害への救済策や積極的な人材登用など内政面での手腕も評価され、自ら出陣して国土防衛に貢献するなど優れた軍略家としての顔も持っていました。

生い立ち


永楽帝は1360年(至正20年)、明朝の初代皇帝となった朱元璋(しゅげんしょう:洪武帝)の四男として生を受けました。

姓は朱、諱(いみな)は棣(てい)、死後に贈られた廟号は太宗(たいそう)で諡(おくりな)は文皇帝といいます。

永楽帝という呼び名は皇帝として統治した最後の時代での元号による、日本での通称です。

1370年(洪武3年)に燕王に任じられ、青年期には主としてモンゴル系勢力に対抗する北辺の国土防衛に従事しました。

甥である第2代皇帝・建文帝へのクーデターは初代・洪武帝が各地に任じた皇族の廃止政策に対する反発を名目としたもので、1402年(建文4年)に明朝第3代皇帝に即位し元号を「永楽」と改めます。

それまで首都であった南京に北京を加えた二拠点体制を経て、やがて北京へと遷都を行いました。

政治的な方針としては初代・洪武帝が農本主義による国力向上といった内治政策を志向したことに対し、遠征による版図拡大が象徴する帝国主義が認められます。

北方の国境付近ではモンゴル系勢力との紛争が絶えず、永楽帝自らが出陣することも実に5度にわたりました。

また南方沿岸域では海賊である倭寇への対処にも注力し、それまで関係が良好ではなかった日本との交易を再開したのが永楽帝でした。

日本史でいえば「日明貿易」の開始に関わる出来事であり、永楽帝の即位を祝賀し使節団を派遣したのが、室町幕府第3代将軍・足利義満です。

義満は永楽帝から「日本国王」の称号を贈られ、朝貢という名目ではありましたが明との良好な関係を構築しました。

永楽帝は1424年(永楽22年)、満65歳という高齢で自ら第5回目のモンゴル遠征に赴きその帰路で崩御しました。

永楽帝の家族


永楽帝の父は初代・洪武帝の朱元璋で、母は馬皇后とされていますが、実際の生母は高麗人の碽妃(こうひ)という人物だったと考えられています。

兄弟姉妹は非常に多く、名前が記録されている男子が25名、女子が16名いますが、それぞれの生母には諸説があります。

皇后には仁文孝皇后、后は24名が記録されていますがその他は詳らかではありません。

名が残っている子どもは男子4名・女子5名がおり、長男の朱高熾(しゅこうし)は第4代皇帝・洪熙帝(こうきてい)として即位しました。


代表的な永楽朝作品の特徴とその魅力


永楽帝自身は工芸品の創作者というわけではありませんでしたが、統治時代に特筆すべき美術史上の功績として景徳鎮の発展が挙げられます。

いわずとしれた陶磁器の名産地である景徳鎮は、漢代にはすでに焼物の生産が行われていたといいます。

焼物の原料となる良質な粘土や、焼成に必要な燃料の松が豊富にあったこと、加えて完成した製品を水運によって流通させられる立地条件などが、景徳鎮が陶磁器の産地となった根拠です。

従来の王朝では首都の近傍に窯業地域を設けることが一般的だったとされますが、永楽帝は景徳鎮に着目してここに官窯を設置しました。

永楽帝による最初期の景徳鎮製品は「永楽窯(えいらくよう)」と呼ばれ、その作品群は高く評価されています。

精緻な絵柄、そして瓶や大皿といった大サイズの作品が発達したのは、永楽帝の治世下で比較的安定した制作環境にあったためといえるでしょう。

永楽窯は歴史的な側面からも、たとえ小品であっても高い市場価値が付与されることでも有名です。

宮廷磁器の創始者・永楽帝


戦乱の世から即位した明朝初期の皇帝らしく、文人というよりは軍人としてのイメージが強い永楽帝。

しかし現代にまで続く景徳鎮というブランドを国家としてプロデュースした立役者でもありました。

宮廷御用達の窯が、やがて世界的に愛される名品の数々を生み出していくこととなります。

3種類の永楽磁器の特徴や時代背景


永楽帝の磁器に対する思いは強く、とりわけ白磁を愛好していました。

陶磁器を作る際、器の表面にかけてガラス質を生成する液体を釉薬といいますが、白磁の場合は、ケイ酸とアルミニウムが主な成分となった白色粘土の白素地に、鉄分を含まない植物灰などを使って精製された無色透明の釉薬をかけます。

永楽様式の白磁は、甜白と呼ばれる釉を陶器にかけて焼き上げる方式でした。

永楽様式の白磁はしっとりとした落ち着きと、素朴な中にも格調高い品位を表現しています。

この甜白の釉は極めて微小な気泡を含んでいたため、焼き上げる際に、気泡が蒸発した跡が微細な凸凹を生みました。

この結果、まるで柑橘類のような肌合いを想起させる出来栄えとなるため、橘皮文と称しています。

青花磁が大きく発展して、優れた品質のものが生み出されたのは明朝の永楽期から宣徳期にかけてです。

青花とは青い模様という意味です。

白磁の下地に、青色の染付で多彩な文様が描かれていますが、青色に発色する原料はコバルトです。

明代初期の青花はやや暗い色調の作品が多いです。

これは鮮やかな発色を見せるイスラム地域産のコバルトが輸入されておらず、中国国内産のコバルトを使用したためと言われています。

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