表千家十三代即中斎
おもてせんけじゅうさんだいそくちゅうさい

1901年(明治34年)-1979年(昭和54年)
茶道家元・表千家の十三代。斎号は、即中斎・無尽・清友軒。
十二代千宗佐の次男で、兄・不言斎の急逝により、家督を継ぐこととなる。
表千家の茶室・不審庵を財団法人化した人物であり、晩年も茶道普及に尽力した。不審庵に伝わる元伯宗旦直筆の手紙、『元伯宗旦文書』を公刊したことでも知られる。

表千家十三代即中斎とは、茶道家元の1つで、裏千家・武者小路千家とともに三千家に数えられる表千家の十三代目です。表千家とは、千利休の孫・宗旦により建てられた、不審庵(ふしんあん)と呼ばれる茶室を管理する茶道流派。
十三代目の即中斎は、現代茶道への礎ともなった人物で、より現代的な茶道を展開した人物です。ここでは、表千家十三代即中斎の生い立ちや、茶道への貢献について解説します。

生い立ち


十三代目即中斎は、1901年に京都府で生まれました。表千家十二代・惺斎宗左(せいさい そうさ)の次男で、幼名を覚二郎と言いました。
慶応義塾大学文学部、京都帝国大学(現在の京都大学)史学専攻科を卒業。表千家千宗佐を継ぐのは即中斎の兄であったが、1936年に兄が急逝してしまいます。翌年の1937年、父・惺斎宗左の死去により、即中斎が、表千家十三代家元・千宗佐を襲名しました。
しかし、1941年に第二次世界大戦が開戦すると、茶道どころではなくなり、活動も乏しくなります。即中斎は、戦争のさなかでも、茶道が閉ざされぬよう尽力しました。
そして1949年、不審庵を財団法人として設立します。戦後に茶道の普及に努めた裏千家に続く形で、茶道の大衆化を図りました。即中斎による表千家の組織化により、現代社会に茶道文化を合わせ、茶道がより一般に広まったのです。

表千家・裏千家・武者小路千家の違い


表千家とは、千利休を祖とする茶道流派です。
同じ三千家に数えられる裏千家は、分家であり、表千家の不審庵がある通りの裏にあることから、裏千家と呼ばれます。また、三千家の1つ、武者小路千家は、京都市上京区武者小路通りにあることが由来です。
戦後、茶道の普及活動に最も早く対応した裏千家は、学校のクラブ活動で茶道を導入するなど、一般的に広く知られている流派と言えます。裏千家の茶室は、今日庵(こんにちあん)と呼ばれ、京都市上京区小川寺之内上ルにあります。
武者小路千家は、千利休の孫・宗旦の四男が興し、表千家の分家という立ち位置です。茶室は官休庵(かんきゅうあん)で、表千家と同様に、財団法人になっています。

表千家の歴史


表千家は、千利休の孫である千宗旦の三男・江岑宗左が、確立させた家元です。紀州藩主の茶頭として、仕えました。
江岑宗左は、千利休から数えて四代目のため、表千家は四代から始まります。四代の江岑宗左から、表千家で修業を積んだ者は、宗佐と名乗るようになりました。
ほかの三千家と同様に、表千家も1788年に起こった天明の大火にて、茶室が焼失。八代啐啄斎のときでした。わずかな茶道具のみを残し、伝統ある茶室を失いながらも、復興に尽力しました。
さらに1906年、十二代惺斎のとき、失火により家元の建物が全焼。復興は長期間におよび、1913年までかかったとされています。
第二次世界大戦中も茶道の伝統を守り、戦後は組織化に努めました。人口増加に伴い、茶道人口も増え、大衆化した茶道に対応した結果です。この組織化により、三千家の家元ながら、伝統的な茶道を継ぎつつ、より現代的に変化したと考えられています。
現在は、十五代猶有斎へと家督が引き継がれています。

表千家十三代即中斎は今日の表千家・茶道の基礎を作った人物


表千家十三代即中斎は、表千家の茶室・不審庵を財団法人とし、組織化に努めた人物です。
伝統を重んじる家元において、法人化は大きな変革。反対の声もあるなか、財団法人化を実現し、戦後の茶道復興、そして茶道の普及に大きな貢献をしました。
古来の茶道と、現代社会への適応という難しい課題を乗り越えたことから、現在の表千家を作った人物と言っても過言ではないでしょう。

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