秋野不矩(あきの ふく)とは、インドの寺院や人々をモチーフとした絵画を残した日本画家です。
もともとは日本画らしい絵画を描いていましたが、客員教授としてインドへ赴任して以降はインドの風土や宗教を描いた作品が増えました。
後進の育成に力を入れ、数々の作品が受賞したことから文化功労者として功績が認められた人物でもあります。
今回は秋野不矩の生い立ちや作品の魅力、夫の沢宏靱との関係を紹介します。
1908年(明治41年)-2001年(平成13年)
昭和の時代に活躍した静岡県出身の日本画家。
元夫は日本画家の沢宏靱(さわ こうじん)で、2人の間には6人の子がいる。
政府が主催する官展に出品していた際は古典的な日本画を描いたが、後に西洋絵画に感化されて作風が変わる。晩年はインドをモチーフにした作品が多い。
1999年に文化勲章を受章。
生い立ち
秋野不矩が生まれたのは、1908年の7月。父は神主で、現在の静岡県浜松市で生まれ育ちました。
決して裕福ではない家庭で、五女として生まれた秋野不矩。本名は平仮名でふくと書きます。
小学校時代の教師の影響で西洋絵画に興味を持ちますが、静岡県女子師範学校へ進学後、高等小学校で教鞭をとります。
しかし教師の職が合わず1年で退職。画家を目指すため、1927年から日本画家・石井林響(いしい りんきょう)に師事します。
石井林響は日本画よりも洋画の方が優れているとの見解を持っていました。日本画家として活躍する傍ら、趣味で洋画を描くこともあったとされています。
1929年、師の石井林響が病に倒れたことをきっかけに、秋野不矩は京都に移って西山翠嶂(にしやま すいしょう)が開いた画塾青甲社に入塾しました。
1930年の第11回帝展で『野に帰る』が初入選を果たすと、次々と作品が入選します。1936年には新文展で選奨、1938年第2回新文展では特選を受賞して無鑑査者となりました。
無鑑査者とは過去の実績から、美術展で事前の審査・監査なしに出品できる芸術家です。
秋野不矩が日本画家・沢宏靱と結婚したのも、この頃でした。結婚生活は1958年まで続き、6人の子をもうけます。
転機は、1948年に日展を離れたことでした。秋野不矩は、上村松篁や広田多津らと創造美術(現在の一般社団法人創画会)を結成します。
創造美術は、日本画の革新派が集まった美術団体です。1951年に新制作派教会と合併した後も、秋野不矩は会員として活動を続けました。
1949年に、秋野不矩は京都市立美術専門学校の助教授に就任します。よりいっそう絵画の研究に没頭し、客員教授としてインドへ赴任。以降、人物画よりもインドの寺院や風景を描きました。
1966年には京都市立美術大学の教授となり、1974年まで務めて名誉教授に就任します。この頃、使用していたアトリエが2回火事で焼失しますが、アトリエを移して制作活動は続けます。
秋野不矩は何度もインドを訪れながら、個展の開催や美術展への出品をして、1991年に文化功労者に顕彰。1999年には文化勲章を受章しました。
夫・沢宏靱との関係
秋野不矩が沢宏靱と出会ったのは、西山翠嶂の画塾青甲社でした。
沢宏靱はもともと滋賀県の生まれで、1924年に上京したものの、帝展の落選で京都に戻った経緯があります。
2人が結婚したのは1932年。1948年の創造美術結成にも夫婦で携わっています。
秋野不矩とは異なり、沢宏靱は岩礁や海原を描いた作品が有名です。2人の間には6人の子がいましたが、1957年に離婚しました。絵本作家の秋野亥左牟(あきの いさむ)は、秋野不矩と沢宏靱の次男です。
作品の特徴とその魅力
秋野不矩の作品は、エキゾチックなインドの風景を描いていることが特徴です。
初期は日本画らしい人物像も多くみられますが、インドへの訪問を境に中東の風景や宗教をモチーフにした作品が増えました。
彼女が描いたのは、壮大な大地や神秘的な建物です。中東ならではの建物や人物の服装を豪奢に描いています。日本画に西洋絵画の技術を取り入れ、独自の解釈で現代日本美術を牽引した人物です。
インドに魅せられた日本画家・秋野不矩
秋野不矩は日本画家でありながら、インドに魅力を感じて、西洋絵画の特徴がある絵画を描きました。
さまざまな展覧会へ出品し功績を残しただけでなく、後進の育成や美術団体の創設にも携わったことから、日本の美術界に与えた影響の大きい人物です。
秋野不矩の作品は、神秘的な中東の雰囲気を絶妙に表現していることが特徴です。自分が魅せられた風景を画面に描くことで、その魅力を後世に残しました。
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