嘉慶帝
かけいてい

嘉慶帝(かけいてい)とは、1616年から1912年に栄えた清の第7皇帝です。

清は、満州の女真族が建国した後金国を前身として作られました。

最盛期は嘉慶帝の父・乾隆帝(けんりゅうてい)の時代で、嘉慶帝以降は衰退の一途をたどっています。

人口増加や他国との貿易、海賊との戦いなど、激変の時代にあった清を指揮した嘉慶帝。

本記事では、嘉慶帝の生い立ちや父との関係、他国との攻防を紹介します。

プロフィール


1760年-1820年
中国・清の時代第7代皇帝。

諱は永琰(えいえん)である。

即位後に顒琰(ぎょうえん)へ戒名。

日本では元号から嘉慶帝と呼ばれることが多い。

在位したのは1796年から1820年だが、即位後も父・乾隆帝が実権を握っていたため、実際は父の死後から指揮権を持った。

当時の清は紛争が比較的少なく平和で、さらに海外から作物が多く導入され、人口が急増していた。

国内生産量は大幅に減少して国民は飢え、軍隊は弱って実戦では役に立たなかったといわれている。

また、イギリスからのアヘン流入により、清が急激に衰え始めていた時代でもある。

生い立ち


嘉慶帝は、1760年に乾隆帝の15男として生まれました。

乾隆帝は幼い頃から聡明で強く、皇帝としての素質を認められていた第6代皇帝です。

1795年、乾隆帝が85歳のときに嘉慶帝は譲位を受けて即位します。

しかし父は実権を手放そうとはせず、嘉慶帝は見せかけの皇帝として在位しました。

実際に嘉慶帝へと実権が渡ったのは、乾隆帝が崩御した1799年といってもよいでしょう。

父が亡くなってすぐ、嘉慶帝は乾隆帝が重用していたヘシェンを誅殺。

国家財政を私腹としていた元凶を絶ち、国家正常化を目指します。

しかし中国の人口は100年で2億人以上増え、生産量が低下して国民の暮らしは貧しさを極めました。

人口が急増したのは、海外からトウモロコシやサツマイモ、ジャガイモが輸入され、食が豊かになったためと考えられています。

一方で農業耕地の開拓は進まず、国内生産量が落ちた状態でした。

反対に南宋時代から始まった白蓮教は力を強め、一般国民を巻き込む反乱となります。

反乱自体は乾隆帝の時代からありましたが、軍隊によって抑え込まれていました。

しかし嘉慶帝の指揮する軍隊は墜落寸前で、たった80名ほどの反乱軍に城内まで踏み込まれてしまいます。

嘉慶帝は反乱を抑えようと手を尽くしますがうまくいかず、郷勇と呼ばれる義勇兵を雇って反乱軍を鎮圧しました。

さらに、清の船が海賊に襲われる事件も多発。

政府は武官の李長庚(り ちょうこう)へ依頼し、海賊対策へと乗り出します。

結局、10年もの戦いの末に海賊の後ろ盾となっていた西山朝(現在のベトナム)を倒し、海賊も討伐されました。

なんとか難を逃れた清ですが、軍隊の弱さが露見し、失墜は避けられませんでした。

国は守られたものの、イギリスから密輸入されるアヘンやキリスト教弾圧により、次第に滅亡へと進んでいったといわれています。

嘉慶帝の父・乾隆帝は清の最盛期を担った


嘉慶帝の父・乾隆帝は、1711年に清朝の第5代皇帝・雍正帝(ようせいてい)の第四子として生まれました。

祖父は第4代皇帝の康熙帝(こうきてい)で、乾隆帝は祖父から溺愛されて育ったと伝えられています。

幼い頃から賢明で、皇帝への即位も期待されていました。

乾隆帝は派手好きで、質素な父や祖父とは嗜好の違いをみせます。

また、即位後すぐに父の時代に助命された者を処刑し、存在感と力を見せつけました。

功績として有名なのは、十全武功(じゅうぜんぶこう)と呼ばれる遠征です。

ラオスやタイなど、10つの地域へ遠征し、戦いに勝利したと主張しています。

ただし、実際には大敗した戦いもあったとされ、乾隆帝の見栄も含まれていると考えられています。

イエスズ会を弾圧し、活動を禁じて清を鎖国状態にしたのも乾隆帝です。

実際には乾隆帝の時代から清政府の力は弱まっていき、子の嘉慶帝で完全に力を失ったとされています。

作品の特徴とその魅力


嘉慶帝は即位前から学問に励み、人徳や経史、題詩など幅広く学んでいました。

そのため、父の乾隆帝よりも、学問や芸術の才能が高かったと評されています。

国政に苦しんだ時代を統制しながら、皇室の所蔵品を整理し、菅書を編集したり書籍を執筆したりと文化事業も進めました。

乾隆帝が歴代の名国版本を収集した、『天祿琳琅(てんろくりんろう)』を復旧させたのも嘉慶帝です。

天祿琳琅は1797年の火災で消失しましたが、嘉慶帝が大学士に命じて再編成させ、『天祿琳琅書目後編』ができました。

嘉慶帝は清の国政と文化を守った人物


父から国を継いだときにはすでに崩壊の危機にあり、清の行く末を左右する重要な時期に皇帝として指揮したのが嘉慶帝です。

難しい戦局を任されながら、国民のために国政を維持し、そして清の文化も守ろうとしたことが評価されています。

残した書や功績も多く、自身も芸術の才に溢れた人物だったと言い伝えられています。

一方で嘉慶帝の努力も虚しく、清は滅びの一途をたどりました。

乾隆帝によって築かれた鎖国体制は、国政を弱め、海外からの侵略を待つだけの状態へと国を弱体化させていったのでした。
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