三岸節子
みぎしせつこ

現代においてはジェンダーについて言及するのは避けられますが、かつて美術の世界では男性作家による画壇の影響が強かったとされている中で、女性芸術家の活躍は近現代史を通じて特筆される事項の一つではないでしょうか。

初めて女性洋画家が文化功労者に選定されたのは1994(平成6)年のこと。

その作家が「三岸節子(みぎしせつこ)」です。節子の精力的な活動は目覚ましく、その画業を振り返ると女流画家の地位向上にも大きく貢献してきたことが分かります。

本記事では三岸節子のプロフィールや生い立ちを概観しつつ、作品とその魅力についてご紹介します。

プロフィール



1905年(明治48年)1月3日‐1999年(平成11年)4月18日
明治~平成の時代に生きた日本の女性洋画家。

近現代における女流洋画家の第一人者として知られ、20歳代から女流画家団体創設に参画するなどの活動を行いました。

国内外を問わず精力的に作品を発表し、1994(平成6)年には女性洋画家として初めての文化功労者になるなど「女性初」を冠する多くの業績を残した作家でもあります。

生い立ち



三岸節子は1905年(明治48年)1月3日、愛知県中島郡起町字中島(現在の一宮市)で父・吉田永三郎と母・菊の四女として生を受けました。
節子は十人兄弟の六番目の子で実家は裕福な織物工場を営んでいましたが、彼女が15歳の時に不況のあおりで倒産。後に節子は画家を志して単身上京することになります。

節子が絵の道を志望したのにはいくつかの理由があるとされますが、発育性股関節形成不全という症状があったために両親からの抑圧を感じて育ったことが起因しているともいわれています。

名古屋市の淑徳高等女学校(現在の愛知淑徳高等学校)卒業後に上京し、本郷洋画研究所で創設者の一人である洋画家・岡田三郎助に師事しました。

1922(大正11)年に女子美術学校(現在の女子美術大学)2年に編入、1924(大正13)年に同校を首席という成績で卒業します。

同年、在学中に出会った洋画家・三岸好太郎と結婚。好太郎は戦前モダニズムを代表する洋画家と評され当時からその画才が注目されていましたが、自由な女性関係などがあり家庭を顧みないことから結婚生活は苦難に満ちていたといわれています。

1925(大正14)年に春陽会第3回展に初出品した作品が初めて入選。同年に婦人洋画会を結成します。1930(昭和5)年には夫の好太郎と共に独立美術協会設立に参画しますが、女性会員を認めない規定から正会員にはなれませんでした。

2年後には春陽会を抜けて独立美術協会の第2回展に出品し入選。しかし1934(昭和9)年に好太郎は三人の子と多額の借金を残して急逝してしまいます。

1936(昭和11)年、長谷川春子や佐伯米子ら女性画家六名と七彩会を結成。1939(昭和14)年には独立美術協会を退会し、新制作協会の会員となりこちらに出品するようになります。

同年9月に第二次世界大戦が勃発しますが戦時中も疎開することなく、明るいタッチの静物画を多く手掛けました。

戦後の1947(昭和22)年、女流画家協会の創設発起人となりますが後に脱退。翌年に洋画家の菅野圭介と別居結婚しましたが五年で離婚しています。

1951(昭和26)年には女性美術家として初めて芸能選奨(現:芸術選奨)文部大臣賞を受賞しました。翌年には第1回日本国際美術展の一般投票で第一位に選ばれ、1954(昭和29)年に初めて息子の留学先であるフランスへと渡航。

1968(昭和43)年には南フランスのカーニュへと移住し、1974(昭和49)年にはフランス・ブルゴーニュ地方のヴェロンという村に居を定めました。

フランス在住時にはヨーロッパ各地を巡って風景画を中心に手掛け、1986(昭和61)年に勲三等宝冠章(現:宝冠白蝶章)を受章。宝冠章は2003(平成15)年の栄典制度改正まで女性限定で授与された唯一の勲章でした。

1989(平成元)年に帰国、神奈川県の大磯にアトリエを構えて制作を継続。翌年に朝日賞を受賞し、1994(平成6)年には女性洋画家化初の文化功労者に選ばれました。

1998(平成10)年に愛知県一宮市の節子生家跡に三岸節子記念美術館がオープン。その翌年、1999年(平成11年)4月18日に節子は循環器不全により大磯の病院で満94歳の生涯を閉じました。

三岸節子作品の特徴とその魅力



数々の美術展での入賞や受章など、節子の技量を明かす業績は枚挙に暇がありません。

しかしその作品の特徴や魅力を話題にするとき、絵に込められた「気迫」のようなものに思い至る人は少なくないといいます。

ここでは節子が二十歳の時に描いたという「自画像」を例に挙げてみましょう。

切りそろえた前髪に赤い着物、黄色い帯、少し紫がかったような羽織姿。しかしその表情はあくまで厳しく、何かを見据えるというよりは睨み付けるといっても過言ではない強い眼差しが印象的です。

節子はこの時好太郎の子を身ごもっていたとされ、苦難に満ちた結婚生活の予感に立ち向かう気概を感じると評する人もいます。

節子の波乱に満ちた人生のバックボーンともいえる生き様が表出するような迫力が、その作品の魅力になっているのかもしれません。


女性画壇の牽引者、三岸節子



「女性初」と冠される数々の業績で知られる三岸節子。

その人生は波乱に満ちたものでしたが、紛うことなく女性画家の地位向上に尽力してきた軌跡が鮮明に刻まれています。

強く生きたことの証が作品に宿る、生粋の画家だった人物といえるでしょう。

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