レオナール・フジタ
れおなーるふじた(藤田嗣治)

1886年(明治19年)–1968年(昭和43年)
画家・彫刻家で、フランスも最も有名な日本人画家。
1886年11月27日に東京で生まれ、程なくして父親の仕事の関係で熊本に転居しています。
5歳の時母親が34歳の若さで急逝し、このことが後の華々しい女性遍歴に関係していると考えられています。

1900年、中学生となった藤田嗣治の水彩画が、日本学生の数作品の一つとしてパリで行われた万国博覧会に出展され、自信を与えるきっかけとなりました。そして、14歳の時画家になる決意を父親に伝えたところ、父親は絵の道具を買うためのお金を渡し、その気持ちに応えています。1905年、中学卒業とともにフランスへの留学を考えます。しかし父の知人の森鴎外から日本の美術学校を出てからの方が良いとの助言を受け、東京美術学校に進みました。東京美術学校を卒業した後はしばらく日本で活動をして、1913年、27歳で憧れのフランスへ渡っています。
パリではピカソと会い、キュービスムの影響などを受けながら創作を続け、なかなか認められないまま時がたち、フランスに渡って一年後に第一次世界大戦が勃発します。空爆で住居が破壊され、日本からの送金も絶えて生活が厳しくなり理髪店に行くお金もないため、伸び放題の髪に自らハサミを入れていました。これが独特なおかっぱ頭の始まりで、この時の苦労を忘れないため、藤田嗣治は成功してからもこの髪型を大切にしたと言われています。

1922年はアジア出身者として初めてサロン・ドートンヌの審査員になり、「サロンの寵児」と呼ばれるなど幸福な時期を過ごしました。同時に、何人もの女性と代わる代わる付き合い、話題に事欠かない生活を送っています。1929年、藤田嗣治は自らがユキと名付けた女性と一緒に日本へ帰国します。その時には芳しくない噂をたてられましたが、展覧会は好評で、その後も日本とパリで精力的に活動しました。
しかし、展覧会の後再び戻ったパリにてユキと離別します。この時描いた「調教師とライオン」「死に対する生命の勝利」には藤田嗣治の特徴的であった乳白色を使った独特の作風が見られず、以前と全く異なる色合いになっている点が特徴です。

第二次世界大戦が始まり、パリから日本へ避難したり、戦時中従軍画家であったため非難を受けてアメリカへ渡ったりしましたが、最後にはパリに居を戻します。そこでも戦争に加担したという情報に苦しめられた上、離れていた間にパリの美術トレンドも変わり、居心地はあまりよくありませんでした。それでも負けずに徐々に評価を回復し、1955年にフランス国籍を取得、1959年にはカトリックの洗礼を受け、レオナルドの洗礼名を授かりました。晩年はフジタ礼拝堂の設計や建物内のデザインを考案するなど、宗教に関連した作品を数多く残し、1968年にがんのため永眠しました。

代表作品の「乳白色の肌」を基に裸婦像などは西洋画壇の絶賛を浴びた。
自画像や猫を主題とした作品なども人気を博す一方、戦子どもをテーマとし、タイル状の<小さな職人たち>シリーズなどでは自由に描き評価された。
魅せられた河
誕生日
イスマエル・ネリ
レオナール・フジタ(藤田嗣治)はパリ在住中に独自のスタイルを追究するなかで、日本や東洋の絵画のもとである紙や絹の優美な質感を油絵で再現しました。
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